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東西ドイツ統一(1990)

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線末期。東からはソ連軍が、西からはアメリカ・イギリス・フランス軍がドイツに侵入、各地で激しい戦いを続けました。1945年4月25日ソ連軍とアメリカ軍がとうとうエルベ川で合流。両軍兵士が喜びの交歓をします。

ベルリン攻防戦は同25日から始まり約3日でほぼ決着が付いて30日にはヒットラーが自殺しますが、一部の部隊は最後まで激しく抵抗。最終的にベルリン防衛軍が降伏したのは5月2日でした。そして8日チャーチルとトルーマンがヨーロッパ戦線の勝利を宣言します(VEデー)。

この結果を受けてドイツは取り敢えず連合軍の支配下に入りますが、首都ベルリンは東側をソ連、南側をアメリカ、西側をイギリス、北側をフランスが、分割占領されることになりました。そして、これがその後のドイツ分割の悲劇へとつながっていきます。

結局ソ連軍占領地域と米英仏軍占領地域が別々の国として独立することになります。まず米英仏の占領地域は1946年に統合されましたが、1947年6月の全地域統合の話し合いは決裂、1948年4月ソ連は西ベルリンを封鎖。この地域に住む人々が孤立することになりますが、これに対して米英仏側は物資の空輸を敢行。この一触即発の状態は翌年まで続きました。

このいつ戦争が起きてもおかしくない状態は幸いにも実際の戦闘には至りませんでしたが、その後50年にわたって続く「冷戦」の始まりとなるものした。

結局翌年ソ連の占領地域は「ドイツ民主共和国」として独立、一方の米英仏の占領地域は「ドイツ連邦共和国」として独立しました。こうしてドイツは朝鮮・ベトナムとともに冷戦による「分割国」となってしまいましたが、その東西の経済力の差はあまりにも明確でした。

そのため、東ドイツではベルリンの東西境界線を越えて西側へ脱出しようとする市民が大量に発生。業を煮やした東ドイツはこの境界線上に「ベルリンの壁」を建築。これに歯止めを掛けました。1961年8月13日のことでした。

このベルリンの壁はその後1985年にソ連にゴルバチョフが登場して東西緩和を実現するまで、市民の前に冷たい姿をさらし続けました。そして1989年11月10日この壁が崩されるまで、この壁を強引に越えようとして警備兵に射殺された市民は約200人、途中でつかまった人は1万人ほどと推定されます。(脱出に成功した人は4万人)

そして、この長い長い不自然な状態が解消されたのが1990年10月3日でした。当初東ドイツ政府は西ドイツとの対等合併を模索していましたが、それでは時間がかかるため、国民の声により東ドイツの各州がばらばらに西ドイツに「加入」するという吸収合併方式で進めることになり、この日実現したものです。

東ドイツは統合前は東ヨーロッパの優等生でした。東ヨーロッパ経済圏の中でも、東ドイツ製の工業製品は品質が良いことで大人気でした。しかし、その東ドイツが西ドイツと一緒になってみると、西ドイツの技術の前には全く歯が立たなかったことが明確になり、旧東ドイツ地域の経済はほぼ壊滅状態になります。

そしてドイツはこの旧東ドイツ地域の経済復興のために、莫大な資金投入を余儀なくされ、90年代の世界経済減速のひとつの原因となったとみることもできるでしょう。これは戦後50年間の借金の返済をまとめて迫られているものともいえます。

しかし、元気なドイツ国民はきっと短期間でこの50年分の借金を返して世界のリーダーの一人に復帰してくることでしょう。


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