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阿部正弘

天保14年(1843)閏9月11日、福山藩主・阿部伊勢守正弘(25)が老中に任命されました。

これは遠山の金さんこと町奉行・遠山景元や、必殺仕事人・中村主水などの時代です。幕末、維新前夜のことですが、実は日本の開国に関することは全てこの阿部正弘の時代に行われたのです。

当時は水野忠邦が天保の改革で幕政の建て直しを図り、必ずしも成功しなかった時で、阿部正弘はいわばその水野忠邦の後任として、天保の改革の後始末をすることを期待されていました。しかし、この時代まさにアジアの情勢は急速に展開しつつあり、彼はもっとハードな仕事をすることを求められます。この時代にこの若く優秀な人材が幕閣にいたことは、日本にとって大変幸運だったと思います。私はこの阿部正弘という人を鎌倉幕府で蒙古襲来に耐えた北条時宗とよく比較します。

阿部正弘は老中としては大変若かったのですが、この当時老中の顔ぶれが次々と入れ替えになった時代で、そのため、すぐに「着任の順番」ということで、老中主座に据えられることになります。

開国に向けての動きは阿部の老中就任翌年の弘化元年(1844)から始まります。この年、オランダ国王が日本に親書を送って来ました。その親書では2年前に起きた阿片戦争の概略が書かれ、また蒸気船の発明によって海上交通網が飛躍的に発展していることを述べた上で、もうこれ以上鎖国を続けることは不可能であるから是非開国すべきである。その時、日本は国際慣行などをまだ知らないだろうから、オランダが今までの長年の付き合いのお礼として、色々と教えてあげたい。そういう親切なものでした。

これに対して、阿部は異例の老中奉書(当時の日本の最高の公文書)で返事を書き、今はまだ開国に積極的に踏み切る訳にはいかないが、近い将来開国することになるかも知れないということをほのめかします。

しかしその「近い将来」はあまりにも近い将来でした。

弘化3年閏5月27日、アメリカ東印度艦隊司令長官ジェームス・ビドルが2隻の帆船で浦賀に来航します(つまりこれは黒船ではない)。この時ビドルが大統領から受けていた命令は、日本ともめ事を起こさずに、穏やかに開国の意志がないかどうかを調査すること、というものでした。しかし日本という国の政府の性格というのは当時も現代もだいたい同じです。こんな穏やかな方針で日本が動く訳がありません。ビトルはうまい具合にあしらわれ、穏やかに帰されます。そしてビドルは日本には開国の意志は無いという報告をしました。しかしそれではアメリカとしては困りました。

当時アメリカは太平洋で盛んに捕鯨をしており、そのための食糧や水などの補給基地として、どうしても日本が欲しかったのです。そこでアメリカは8年後の1852年、新しい東印度艦隊司令長官マシュー・ペリーに今度は断固たる態度で日本を開国させるよう命令を下し、日本に派遣しました。ペリーは香港・琉球を経由して翌年7月8日(嘉永6年6月3日)4隻の軍艦(内2隻が蒸気船)で浦賀に来航しました。

浦賀奉行戸田氏家はすぐに旗艦に与力を派遣し、来意を尋ねます。ペリーが大統領の国書を持って開国の交渉に来たのだと言うと、ここは外国船に開いた港ではないから、長崎へ行って欲しいといいます。しかしペリーはそれを拒否。国書も受け取らないというのであれば軍事攻撃も辞さないと言って、軍艦を江戸湾奥まで進めるなどの示威行動を取りました。

これはただならぬと感じた戸田は至急江戸にそのことを通報。幕府はすぐに会議を開き、やむを得ぬとして国書の受理を決定。しかし老中が出ていって受け取ったとあっては色々まずいということで、浦賀奉行が受け取るように指示します。

そこで6月9日、戸田は「皇帝第一の補佐官・伊豆公」というふれこみでペリーの国書を受け取ります。ここから日本の開国への歩みが始まりました。

ペリーは来年返事を取りに来ると言っていったん艦隊を引き上げます。阿部はただちにこの国書の日本語訳を作成。江戸幕府250年の歴史において初めての処置として、この国書に関する意見を諸国大名に尋ねるということを行いました。これに対する大方の意見は、現在の日本の軍備では外国との戦争は不可能である。取り敢えず開国するのはやむを得ないのではないか。そして緊急に軍備の増強を図るべきである、といったものでした。阿部はこういった諸大名の意見に勇気づけられ、次々と対策を打っていきます。

まず諸大名から幕府への上納金を軽減し、逆に資金を貸し付けて、海防関係の工事を急ぎさせます。そして旗本・勝海舟の意見が採り上げられて、大船建造禁止令が解除。幕府自ら鳳凰丸を建造するとともに、オランダに蒸気船を2隻、急遽発注しました。また、たまたまこちらも開国交渉のために来訪していたロシアのフチャーチンに協力を要請、日本の船大工に西洋の造船技術を学ばせました。(こんなに協力したにも関わらずロシアが条約を締結できるのは、アメリカよりずっと後である)更には江戸防衛のため、品川台場が構築されます。外国船との識別の為として日の丸が日本国旗に制定されたのもこの流れの中(安政元年7月9日)でした。

一方のペリーは浦賀を出たあと琉球経由で香港に戻り、1854年1月再び出航して、同年2月13日(嘉永7年1月16日)今度は横浜の金沢沖に来航しました。今度は蒸気船3隻と帆船4隻の構成でした。

日本側は大学頭・林復斎と浦賀奉行・伊沢政義を交渉役に任命。両者の間でかなり厳しい交渉が行われます。その結果日本は函館と下田を開港することに同意するとともに、アメリカ領事を駐在させることを認めた日米和親条約を締結するに至ります。

ここまで持ってくる中で阿部が一番苦労したのは実は国内の強行論者たちの押さえ込みでした。中でもその筆頭だったのは水戸藩主・徳川斉昭で、阿部は斉昭説得のため腹心の部下を派遣して説得に当たらせるなどかなりの努力をしています。しかしさすがの斉昭もアメリカの軍艦を目の前にして、あれを打ち払えとは言えませんでした。

ペリーはこの条約締結に満足して帰国。そして約束通り安政3年7月21日(1856年8月21日)初代日本領事・ハリスが下田に来港します。そして通商条約締結のための交渉が始まるのですが、阿部正弘はこの交渉のさなか、安政4年6月17日、39歳の若さで急死してしまいました。

この激動の時代の幕府の運営に当たったことが、阿部の寿命をひどく消耗させたのでしょう。蒙古襲来の時に政局運営に当たった北条時宗もわずか34歳で亡くなっています。

この時期、阿部を失ったことは、幕府にとって本当に痛手でした。この後の政局運営は取り敢えず佐倉藩主・堀田正睦が引き継ぎますが、朝廷との交渉に失敗して失脚。次いで彦根藩主・井伊直弼が登場するのですが、桜田門外の変で暗殺。その後はもう誰も制御できなくなってしまい、幕府は自ら崩壊していくことになります。最後に官軍との江戸城引き渡し交渉をしたのは、たかが旗本にして幕府陸軍総裁の勝海舟でした。


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