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滝沢馬琴(1767-1848)

明和4年(1767)6月9日、「南総里見八犬伝」で知られる滝沢(曲亭)馬琴が、江戸深川の旗本・松平鍋五郎の屋敷内で生まれました。馬琴の父は鍋五郎の用人をしていました。

馬琴は父が亡くなり兄達が家を出てしまったため10歳で家督を継ぎ松平家に仕えますが、主人がひどい癇癪持ちでその扱いに耐えかね、15歳の時に松平家を去って放蕩無頼の生活に入ります。

やがて24歳の時彼は名戯作家・山東京伝の門をたたき、弟子にしてもらい、ここで歌麿や写楽を発掘したことで有名な版元・蔦谷重三郎と出会います。そして二人の勧めで黄表紙を書き始め、やがて寛政5年(1793)京伝の所から独立、会田百と結婚します。この頃から馬琴は今までのグータラな生活を改め、妻や翌年生まれた子供のためにまじめに働くようになったといいます。

生涯の代表作となる「南総里美八犬伝」は文化11年(1814)に始まり、天保13年(1842)まで28年がかりで書き続けられました。全180回、98巻106冊の大長編小説です。最後の方を書いていた頃はもう馬琴は老齢のため目が見えなくなり、息子の宗伯の妻、お路に口述筆記をさせて書き続けました。この頃、仕事とはいえお路ばかり側に置くことに妻のお百が嫉妬し何かとお路をいじめたという話は有名です。お百はこの八犬伝の完成前に逝ってしまいました。

なお彼のペンネームの「曲亭馬琴」というのは「くるわでまこと」という意味で要するに、本来みんなお遊びのはずの廓で、まじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という自嘲的な筆名です。若い頃さんざん遊びまわった経験がこのペンネームを生み出したのでしょう。


犬塚信乃・犬坂毛野などが活躍する「南総里見八犬伝」(以下、単に八犬伝)の著者・滝沢馬琴(曲亭馬琴)は嘉永元年(1848)11月6日AM4時頃に亡くなりました。明和4年6月9日江戸深川生まれで享年82歳。

多くの戯作を書いておりますが、この代表作「八犬伝」は98巻にも及ぶ大長編物語。制作には28年もの年月を要しております。最後の方では、馬琴は長年の超多忙な作家活動による疲労(彼は絶対に〆切を破らない、超律儀な作家であったとのこと)から来た眼病で目が見えなくなっており、息子の妻に口述筆記してもらって完成にこぎつけました。

この作家の本名は滝沢解(たきざわ・とく)。通称・清左衛門。「曲亭馬琴」(きょくていばきん)はペンネームですが、このペンネームの由来は「くるわでまこと」。

要するに今風に言えば、風俗で女の子に真剣になっているような、野暮な奴、という意味です。近年の文豪・二葉亭四迷(くたばってしまえ!)などと同類の、ふざけたペンネームです。

馬琴は下級武士の家に生まれましたが、上司に恵まれずに仕えていた旗本の元を去り、有名作家・山東京伝の弟子になりました。25歳の時から作品を発表。最初はなかなか売れずに苦しい生活をしていたようですが、次第に人気が出てきます。そして40歳頃には、師である京伝を遙かに凌駕するほどの、大作家となりました。

そして、その大作家としての地位を更に高めたのが48歳の時から書き始めた「八犬伝」でした。

  里見義実は1439年、一介の武士として結城合戦に参戦するも破れ南総の安房に命からがら逃げのびます。ここで金碗八郎という人物と出会った義実は、彼に協力。金碗の主君の仇である、山下定包とその寵姫・玉梓を殺害しました。玉梓は里見義実を末代まで呪ってやるといって死にます。

  このあと、義実はこの国の領主に推され、結婚して伏姫・義成の姉弟をもうけました。そして16年ほどたった時。里見の領地が凶作に見舞われた時、隣国の安西景連がそれに乗じて攻めてきました。戦いが配色濃厚になり、落城寸前という時、義実は「誰か安西の首を取ってきた者には伏姫を嫁として授けるぞ」と叫びます。すると何と里見で飼っていた八房という大きな犬が、その敵将の首をくわえて戻ってきたのです。

  このため、伏姫はこの八房と結婚せざるを得なくなってしまいます。八房は姫を背中にのせて、どこかへ消えて行きました。

  その姫を救い出そうとした金碗八郎の息子大輔は、姫と八房が犬と人間という奇妙な共同生活を送っている洞窟を見つけ、八房を射殺しますが、その時流れ弾が姫にも当たってしまい、伏姫も命を落としてしまいます。ところがその時、伏姫がいつも持っていた「仁義忠孝悌礼智信」の八文字が書かれた数珠が飛び散り、どこかへ飛んで行きました。そして伏姫は意外な言葉を金碗大輔に言い残すのです。

  伏姫と八房の間に8人の子供ができた。その8人は今飛び散っていった数珠の玉を1個ずつ持っている。その子供たちがやがて里見家を盛り立ててくれるはずだと。

  物語の前半はこの八人の子供たち「八犬士」がお互いに出会い、ひとつにまとまっていくシーンが描かれています。

  小さい頃女の子として育てられていた犬塚信乃は、名刀・村雨丸を奪われ、愛する浜路も殺されてしまいます。彼の家で下男をしていた額蔵は実は犬川荘助でした。そして、浜路の兄が八人の中の精神的リーダー格ともいうべき、犬山道節です。

  犬塚信乃は村雨丸の件で濡れ衣を着せられますが、それを捕らえようとしたのが犬飼現八。二人は芳流閣の上で決闘しますが決着がつかないまま利根川に落ち、流されていって犬田小文吾たちに助けられます。ここにも追手が迫りますが、小文吾の妹ヌイの夫・山林房八が我が身を犠牲にして彼らを助けました。この房八とヌイの間の子供が、後の犬江親兵衛ですが、彼は神隠しにあいます。

  その後親兵衛以外の5犬士も、色々あって散り散りになってしまいますが、その中の小文吾は妖婦・船虫にだまされて馬加大記の城に軟禁されます。そこにやってきた女田楽が実は女装の犬坂毛野。毛野は父の仇である大記を討ち取って、小文吾と一緒に城を脱出しました。

  一方の現八は、庚申山で化け猫を退治。この化け猫に食い殺されていた赤岩一角の息子が、最後の犬士・犬村大角。彼の可哀想な妻が雛衣です。小文吾をだました船虫は、ここでも化け猫の妻になっていました。捕らえられた船虫ですが、通りかかった事情を知らない犬川荘助をだまして、解放させます。

  八犬伝の悪役の中でも、一際存在感のある、この船虫が犬士たちに殺されるのは、この事件のもう少し後になります。

  この後、物語は里見家に戻りますが、こちらはもう伏姫の弟である義成の時代になっていました。ここに流れ込んで来たのが、盗賊の蟇田素藤(ひきたもとふじ)。彼は義成の娘の浜路姫に横恋慕。義成に彼女を嫁にくれと言いますが当然義成は断ります。すると腹を立てた素藤は仲間の尼・妙椿に義成の息子の義通を誘拐させました。

  ここに再登場するのが、神隠しにあっていた親兵衛です。彼はその時9歳ですが、立派な馬に乗り、素藤のいる館山城に乗り込んで、義通を奪回します。素藤はこのあともう一度里見家に挑みますが、再び親兵衛が登場。素藤・妙椿ともに倒しました。

  数年後、今度は関東管領の扇谷定正が里見家を倒そうと兵を起こしますが、八犬士たちの活躍で目的を達することができませんでした。この戦いは結局幕府の使者がやってきて、両者を和睦させます。

  物語の大団円。八犬士たちは義成の八人の娘と結婚。この時、信乃と結婚することになったのは浜路姫、大角と結婚することになったのは鄙木(ひなき)姫です。ちなみに親兵衛の相手は静峰姫。これが角川映画「八犬伝」の静姫(薬師丸ひろ子)のモデルでしょうか。

  やがて八犬士たちに子供が生まれると、八人はそろって隠棲しました。その場所は伏姫が八房とすごした洞窟のそばです。彼らはそこで仙人のようになっていきました。そして里見家は三代目の義通の時代になりますが、この頃から家は傾きはじめ、その子の実堯の時代になると明確に衰退していきます。それを見越したかのように、八犬士はいづこかへと去っていきます。

馬琴が目をわずらって執筆活動に支障が出始めた頃、最初は手の感覚だけで字を書いて戯作を続けていました。しかし、更に目の状態が悪くなると、これ以上はもう自分では字は書けないとギブアップ。息子の妻である、若い、お路に代筆を頼むのです。

しかし当初、お路は読み書きがほとんどできませんでした。そこで、漢字の書き方などを馬琴が教えるのですが、馬琴は目が見えない訳ですから字の形を口で説明するしかありません。この作業は、ものすごくたいへんなものであった、ということです。

ところが、このお路と馬琴の共同作業に対して、馬琴の妻・お百が嫉妬します。このお百とお路の確執はそうとう激しいものだったようですが、馬琴としては仕事を続けていく以上お路は手放せないので、結局我慢しきれなくなったお百の方が家を出てしまいました。お百という人は馬琴にとって終生非常にいい妻だったそうですが、この問題だけでは、馬琴にも苦労をかけたようです。むろん二人は離婚はしていません。また、馬琴とお路の間にも、一切変な関係はありませんでした。


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