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松尾芭蕉(1644-1694)

10月12日は芭蕉忌です。

時雨忌・桃青忌・翁忌などの別名もあります。

松尾芭蕉は江戸時代最大の俳諧人であり、彼に並ぶ存在が全く見あたらない天才俳諧人です。彼はこの分野を文学的に高い所まで押し上げた人であり、「奥の細道」などの著作で知られます。

寛永21年(1644)伊賀上野の赤坂町で農民の子として生まれました。父は農民とはいえども柘植の松尾氏の傍流の家柄で、この付近から「松尾芭蕉・隠密説」なども出てきているのでしょう。19歳の時に地元の文化人・藤堂良忠の家で働くようになり、ここで俳諧を覚えたようです。主人からもその優秀さを褒められますが、主人の死を機に上野を離れ以後数年間各地を放浪したのち、寛文12年(1672)江戸に定住しました。

その前後から京都の俳人・北村季吟に師事しており1674年に免許皆伝。翌年江戸で、宝井其角らが弟子になっています。延宝9年(1681)に李下という人から芭蕉の木をもらって庭に植え、ここから彼の庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになりました。1684〜1685には「野ざらし紀行」の旅、1688には「更級紀行」の旅、そして1689には「奥の細道」の旅に出ています。これ以外にも芭蕉は良く旅をして旅先で弟子たちと共に俳諧を作っています。この旅が多い点もまた「隠密説」のひとつの根拠になっているようです。

なお時々、奥の細道の途中の大阪で芭蕉は死んだと思っている人がいるのですが、「奥の細道」の旅はちゃんと完了して芭蕉は江戸に戻り、芭蕉は江戸に戻って「幻住庵記」や「猿蓑」を書いています。「奥の細道」の最後の句は大垣で「蛤のふたみに分かれ行く秋ぞ」です。

ただし旅はあくまで取材紀行なので「奥の細道」の編集は江戸に戻ってから実質スタートしているわけで、それが完成したのが元禄7年(1694)の4月。そして亡くなったのがその約半年後の同年10月12日です。奥の細道を完成させたあと芭蕉は伊賀上野に帰郷の旅に出ており、上野から京都・大津などにも行き、いったん上野に戻ったあと大阪に行った時に病に倒れます。そして10月9日弟子に「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句を口述筆記させ、その後、10月12日夕刻、死去。享年51歳。

なお、しばしば松尾芭蕉を「俳句の人」と思っている人がいますが、松尾芭蕉の時代には俳句は存在しません。俳句というのは、明治時代に正岡子規が確立したものであり、芭蕉の時代は「俳諧」です。俳句とは「俳諧の発句」というのを短縮して言ったものです。

「俳諧」というのは現代でいうところの「連句」と似たもので、最初に誰かが5・7・5の「発句」を読み、それに続けて次の人が7・7の句、次の人が5・7・5の句、と次々と読んでいくものです。ただし、松尾芭蕉らはこの「発句だけで止めてしまう」形式を愛用しており、そういう意味では、限りなく俳句に近い形式の俳諧であるといえるでしょう。

(2005-10-12 12:10)


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