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大黒屋光太夫(1751-1828)

井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』などで知られる大黒屋光太夫(1751-1828)ら総勢18名(17名とも)を乗せた神昌丸は天明2年12月9日(太陽暦1783年1月11日)伊勢の白子の港を出港しました。

光太夫は伊勢の南若松村(現鈴鹿市)生まれの船頭で、若い頃は江戸で仕事をしていましたが、この頃は故郷に戻って伊勢を本拠地に廻船の仕事をしていました。神昌丸は一見勘右衛門という人が所有する船で江戸に送る米や木綿などを積んでいました。ところが彼らの船は4日後の13日、駿河の沖で突然の嵐にあい遭難、帆柱も折れ、櫨も失って操縦不能になってしまいます。そしてこの状態のまま半年以上も漂流することになったのでした。(漂流中に1人死亡)

やがて彼らが漂着したのは北の果てアリューシャン列島のアムチトカ島でした。1783年の7月15日(19日とも)のことです。この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなりました。(ここで死んだのは7名とも)

4年後、この島にラッコの皮を取りに来たロシア人が彼らに遭遇。そのロシア人が一行をカムチャッカ半島のロシア人の町ニジニカムチャッカに連れて行ってくれました。ここで光太夫らは日本に帰りたいので助けて欲しいと当地の役人に願い出ますが、当時日本は鎖国中。ロシアとしても単純に連れて行く訳にはいかず、願いは不許可となります。このニジニカムチャッカでも3人の仲間が亡くなっています。

残った6人は翌1788年帰国の件をシベリア総督に直接願い出ようと、シベリアの中心都市イルクーツクへ移動しました。この移動にはソリで8ヶ月を要し、一行は1789年2月バイカル湖のほとりイルクーツクにたどりつきます。しかしシベリア総督の返事は色好いものではありませんでした。

失意の彼らに救いの手を伸べたのはフィンランド出身のキリル・ラクスマンという植物学者でした。彼はシベリアの植物の研究で名を上げておりロシアの科学アカデミーの会員にも名を連ねていました。彼はイルクーツクで光太夫たちと知り合って同情し、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝から直接帰国の許可と支援を願い出ようと誘います。

1791年一行を代表して光太夫がラクスマンとともに速ソリでペテルブルグまで行きました。カムチャッカからイルクーツクまでは4000kmでこれに8ヶ月もかかっているのにラクスマンが使ったソリは6000kmをわずか2ヶ月で横断しています。

ペテルブルクでラクスマンと光太夫は皇帝エカチェリーナ2世に2度も謁見することに成功。エカチェリーナ2世は彼らに同情すると共に、これを機会にかねてから考えていた日本との交易を実現したいと考え、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマン陸軍中尉(当時26歳)に遣日使節の命を与え、光太夫らと共に日本に行くよう命じました。

この時点でイルクーツクで6名のうち九衛門が亡くなっており、庄蔵・新蔵の二人はロシアに残る道を選びました(新蔵はロシア人女性と結婚した)。そして、光太夫・礒吉・小市の3人だけが帰国の途に付くことになります。ラクスマンは彼ら3人を連れてオホーツクの港から船で根室港へと入りました。寛政4年9月5日(太陽暦1792年10月20日)、漂流から9年半後のことでした。

漂流民の送還を名目とし、ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航。その知らせを受けて幕府は騒然となりますが、当時幕府の中心人物であった老中・松平定信は、こちらも実は米の生産調整(出来すぎた年にロシアに輸出し、不作の年にロシアから麦などの穀物を輸入)のためロシアとの限定貿易を考えていました。そこで、これをよい機会としてロシアとの交渉をしようと考えました。

松平定信は幕府内の意見の調整をおこなった上でロシア使節に松前まで回ってもらうよう要請をし、翌年6月24日松前の地で、光太夫たちは日本側に引き渡されました。なお一行の中で小市は根室で病死しており、この時引き渡されたのは光太夫と最年少であった礒吉(1766生)の2人だけです。

そしてラクスマンには「根室や松前では外国のことは取り扱えないので次回からは長崎に来て欲しい」と申し入れ、長崎入港を許可する信牌が渡されました。ラクスマンは帰国後この功績により大尉に昇進しています。

ところが、ここで光太夫たちにとってひじょうに不幸な出来事が起きました。

光太夫と礒吉の二人が江戸に回送されてくる途中の7月23日、彼らを日本に迎え入れてくれた老中・松平定信が突然失脚してしまいます。もし定信がそのままであれば、彼らは後のジョン万次郎のように外国との交渉役として大活躍していたのでしょうが、彼らが8月17日に江戸に到着するまでの2ヶ月は彼らの運命を暗転をさせてしまいました。

彼らは一転して「鎖国の禁を破って外国に出た犯罪者」として取り扱われてしまいます。結局二人は江戸の番町・薬園に軟禁されることに。彼らがロシアで見聞したことは将軍侍医・桂川甫周が聞き取って「北槎聞略」11巻としてまとめられ、幕府にとって貴重な外国の様子に関する資料となりました(むろん超機密文書)。これは現在では岩波文庫に収録されています。

二人は一度ずつ一時帰郷を許されています。礒吉が寛政10年(1798)、光太夫は享和2年(1802)のことです(なお二人の名目上の軟禁は一生続いたようですが事実上出入り自由だったようです)。二人はそれぞれ16年振り、20年振りに故郷の地を踏むことになり親類縁者と涙の対面を果たしました。しかし光太夫の妻は光太夫が駿河沖で消息を絶った時に彼が亡くなったものと思い、既に再婚していました。彼は伊勢に自分の場所がないことを悟りおとなしく江戸に戻って別の人と結婚し子供ももうけています。そして文政11年(1828)に亡くなりました。彼のお墓は本郷興安寺にありますが現在鈴鹿市にも建てられています。

またこの光太夫の子・亀次郎は後に大黒梅陰と名乗り、儒学者になっています。なお礒吉の方は天保9年(1838)に亡くなっています。

ラクスマンが幕府からもらった信牌を持ったロシアの使節は1804年にやってきました(当時は将軍家斉の親政で世が乱れていた時代)。使節団のリーダーは実業家のレザノフという人でしたが、この人は極めて交渉が下手であったようで、貿易交渉を実らせることができなかったばかりか信牌まで没収され「以後ロシアの使節は受け入れない」と言われて追放されました。怒りにまかせて帰る途中、東北地方で暴力事件を起こし、日本のロシアに対する心象を悪化させています。彼の行動については50年後アメリカのペリーも批判しています。

その次にロシアが開国を求める使節を送ってくるのは1853年のプチャーチンになります。このプチャーチンは人がいいというか幕府に便利に使われています。どちらかというとペリーの後でアメリカから来たハリスのようなタイプの人だったようです。アメリカの軍事的脅威にあわてた幕府はこのプチャーチンのスタッフの指導のもとに大船(君沢型軍艦)の建造などをやっていますが、結局ロシアとの条約締結は、アメリカよりも後になっています。


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