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勝海舟(1823-1899)

幕末の江戸幕府の最後の支えとなった勝海舟は文政6年1月30日に江戸本所、亀沢町に生まれました。父は旗本小普請組の勝小吉。幼いころ、犬に睾丸を噛まれ危篤状態になりますが父が三日三晩抱きしめて体を温めてやり九死に一生を得るという事件がありました。その後彼は大の犬嫌いになったそうです。

剣術を鍛えるとともに蘭学にも親しみ、長崎海軍操練所で航海術と砲術を学びました。彼は先見の明の高い人物で今の時代にはすみやかに諸外国と交流してその文化を吸収し、日本の国を強い国に育てる、ということを持論としていました。ペリー来航に際して幕府に意見書を提出したりもしており貧乏旗本の息子ではあっても、若い頃から目立つ存在ではあったようです。そのため攘夷派から命を狙われることにもなり、坂本龍馬が彼を暗殺しに来ますが、逆に説き伏せて自分の弟子にしてしまいました。

万延元年には咸臨丸の艦長としてアメリカと往復。この使節の成功により、彼は一転して幕府内でも強い発言力を持つ立場になり、幕府の軍艦奉行に任命されました。その後池田屋事件に連座して謹慎処分をくらうものの、幕府が第二次長州征伐に失敗すると、その和睦のための全権使者に任じられ、みごとこの和睦を成立させます。そして大政奉還、官軍の東海道東進となると、旧知の仲であった官軍の幹部・西郷隆盛と連絡を取り、3日間の会談の末、江戸無血開城をなしとげ、江戸が火の海になるのを救いました。

この時は双方とも江戸で激しい戦闘が起きるのは必至として、戦いやすくするため、積極的に放火する手はずになっていたため、勝・西郷の会談が妥結したところで、その放火担当の隠密たちに計画中止を急ぎ伝令するのが双方とも大変であったといいます。

なお、勝・西郷の会談の際、彼のそばには二人の間の伝令として東海道を走り回った山岡鉄舟が控えていました。万一会談がこじれてそのまま斬り合いになった時の用心であったという俗説がありますが、それはどうでしょうか。西郷を斬ってしまえば事態が更に悪化することくらい分かっていたはずです。

勝は明治維新以後は何度か政府の要職(参議・海軍卿・枢密顧問官)に付きますが、権力闘争からは離れた立場にいて、むしろ悠々自適の日々を送ったようにも見えます。

なお彼の名前ですが、海舟は号であり、幼名は麟太郎、のち義邦、そして安芳と名を変えています。


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