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遠山の金さん(1793-1855)

天保11年(1840)3月2日、『遠山の金さん』こと遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)が江戸北町奉行に任命されました。

江戸町奉行は、現在の警視庁長官と都知事と東京地裁長官をあわせたようなひじょうに重い職務です。江戸幕府は基本的に権力の集中を避けるため同じ職務を複数の人に割り当てており、月交代で担当になることになっています。江戸町奉行の場合も、南町奉行と北町奉行があって、1ヶ月ごとに仕事をしていました。遠山金四郎ははじめ北町奉行でしたが、のち南町奉行になります。この件については後で触れます。

遠山金四郎は吉宗の時代の大岡忠相(越前)と並び称される名奉行で、大岡忠相が享保の改革を行った将軍・徳川吉宗の腹心として活躍したのに対し、遠山は天保の改革を行った老中・水野忠邦に近い人物として重用されました。

ただし吉宗と忠相が非常に信頼深い関係であったのに対して、景元と忠邦の間は常に緊張感のある関係であったようです。

遠山家は源頼朝の家臣、加藤景廉が美濃国恵那郡遠山荘の地を与えられ、その長男の景朝が遠山荘にちなんで遠山左衛門尉を称したのが祖です。その後多くの分家に分かれましたが、その中の明智遠山氏が徳川家康に仕え、旗本となりました。景元の家はこの明智遠山氏の一族です。

景元は若い頃放蕩していたことで知られていますが、これには彼の家の複雑な事情があります。

講談などではこれを次のように説明しています。

  景元の祖父景好にはなかなか子供が生まれなかったため、親戚から養子景晋を迎えた。ところがその直後実子の景善が生まれてしまった。

  1 2 4景好―+==景晋――景元[金さん]| 3+――景善――(男子・夭折)

  それを悪く思っていた相続者である景晋は、義弟にあたる景善の子供を自分の養子にして後をつがせようと考えた。これだけだと水戸黄門の所と似た話。ところが景善の子供が生まれる前に景晋自身に子供(金さん)が生まれてしまった。そこで景晋は金さんの出生届を出さずに止めておいて、後でうまれた景善の子供の出生届を先に出させ、その時点で自分には子供ができないので、そちらを養子にしてあとを継がせたいと願い出た。そしてそのあとで改めて、金さんが生まれたと届け出た。このため金さんの生れは本来は寛政5年8月23日であるが公式記録では寛政6年9月23日となっている。ところが後日、この金さんの義兄(本当は義弟)がこのことを知り、実際は金さんが先に生まれたのだから、金さんが後をつぐべきだと主張した。そこで、金さんは彼に相続させるために、家を飛び出して放蕩したのである。しかしこの義弟が後に早死にしてしまったため、金さんは家に戻ってあとをついだ。

私も昨年「今日は何の日」にこれを書いた時は、この説を信じていたのですが、その後「実説・遠山の金さん」(大川内洋士/近代文芸社)を読みまして実はもっと複雑な状況であったことが分かりました。これが修正した系図です。

1 2 3 5景信==景好―+==景晋――景元[金さん]| 4+――景善+――(男子・夭折)|+――景寿

遠山家というのはほんとに実子に恵まれない家のようで、景好自身も養子であったようです。その景好になかなかこどもが生まれなかったため、景晋を養子に迎えたというのも事実。ところがそのあとで景好に実子・景善が生まれると、景好は実子の景善にあとをつがせたいと考えるようになり、自分が死ぬまで、景晋に出仕を許さなかったのです。

やがて景好が亡くなりますと、幕府への届け出通り、景晋があとを継ぎます。しかし彼は景善のほうが実子なのだから、彼の血統に家を戻すべきだと考えました。そこで、景元が生まれた時、彼の出生届を1年遅らせて、義弟の景善を先に自分の養子にしました。(景善の子供を養子にしたのではない)

景善には男の子がいましたが、この子は早死にしてしまいました。そこで、景善は、義兄の子供である景元を自分の養子にしました。

そして更にこの後、景善にはもうひとり男の子・景寿が生まれます。

ここで景善は、この子の存在で更にわけのわからないことになるのを避けるため(すでにわけがわからなくなっているが...)、この景寿を他家に養子に出してしまいました。

さて、景晋は表面的にはお家の中をまとめるために、景善を自分の養子にして景善をたてていたのですが、気持ちとしては、景好がそうであったように景元にあとをつがせたいと考えていました。そこで景善の出仕をなかなか許しませんでした。

そこで景元はその微妙な家の事情を考え、自分はだめだから義父である景善に早く家督を譲るよう促すため、家出したのではないか?というのが大川内氏の説です。

そして景元は景善の死後、はじめて出仕しています。通説では景善が亡くなったのでやむをえず家に戻ったのではないかとしますが、上記大川内氏の説では、景善が出仕した時点で家出の目的は達されたのですぐに家に戻ったのではないかとします。

つまり、景元の家出は「弟に家をつがせるため」ではなく「叔父に家をつがせるため」だったというのが事実のようです。

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さて、景元は放蕩していた頃に入れ墨を入れていたとされます。その模様は一般に時代劇では桜吹雪とされていますが、一説には女の生首であったともいいます。また実は入れ墨はしていないという説もあります。しかしいづれにせよ彼はどんなに暑い日でも人前では決して肌を見せなかったそうです。

遠山景元が北町奉行として活躍した時代、南町奉行は鳥居甲斐守忠耀でした。

鳥居が天保の改革を厳密に実行しようとしたのに対し、遠山景元はそれを緩和して庶民の暮らしを守ろうとし、両者は常に緊張関係にありました。

例えば鳥居がある時、風紀上よくないとして江戸中の舞台小屋を全て廃止しようとした時、遠山は全て廃止するのはひどいとして、数個を残せるように交渉し、江戸の人々に喝采されました。当時江戸の人々は、鳥居のことを名前に引っかけてキツネと呼び、対して遠山のことをその更に上手のタヌキと呼んでいました。

何かと対立していた二人ですが天保14年(1843)2月24日、鳥居は非常に巧妙な策略で遠山を陥れ、遠山は閑職の大目付に左遷(形式上は昇進)されてしまいました。

しかし、そこからの遠山は大したものでした。鳥居を遙かに越える謀略で、ほとんど綱渡り的な反撃を行い、鳥居は失職します。鳥居忠耀のいろいろな違法行為が暴かれて、鳥居は四国丸亀藩お預けとなりました。そして、その後任の南町奉行には遠山自身が任命されました。このあたりの経緯は時代劇でも何度も取り上げられています。

実際には遠山の大目付時代は2年間あるのですが、時代劇では2年もやってられないので、数ヶ月で復帰したかのようなストーリー構成になっています。

こうして遠山は弘化2年(1845)3月15日から嘉永5年(1852)3月20日まで、今度は南町奉行として、再び江戸庶民の権利を守るために活躍しました。

大目付から南町奉行へという公式には降格になるこの人事は異例中の異例ともいえるものでした。

遠山の南町奉行時代に北町奉行をつとめた人は3人いますが、その中の最後の井戸対馬守覚弘はのちペリー来航の際に、水野の後任の阿部老中の元で幕府代表の一人としてアメリカとの交渉に臨んでいます。

さて、遠山景元は嘉永5年町奉行を辞任すると、晩年は帰雲という号で俳句を書いたりして悠々自適の余生を送り、3年後の安政2年2月29日に亡くなりました。景元のお墓は西巣鴨の本妙寺にあります。


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