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酒井忠清(1624-1681)

昨日の伊達騒動(1671)のところで出てきた大老・酒井雅楽頭忠清(さかい・うたのかみ・ただきよ)は寛文6年(1666)3月29日に大老に任命されました。

この時代は大老が複数おり、酒井が任命された時点で保科正之(徳川家光の弟で会津藩主)も大老でしたし、寛文8年には井伊直澄も大老に任命されて大老が3人になっています。ただ同じ大老といってもその役割は異なっており、井伊などは譜代大名の代表としての地位、保科正之は将軍の補佐役としてのもので、名実ともにトップの座にあったのはこの酒井忠清でした。

またこの「大老」の呼び方についても、それまで「大年寄」「元老」などと呼ばれていたのが、この忠清任命の時初めて「大老」という言葉が使用されました。そういう意味では、彼は「初代大老」でもあります。

さてこの当時の将軍家綱は病弱で政治的な判断力もなく、幕閣が何か書類を持っていくとチラっと見て「左様に致せ」としか言わなかった為「さよう様」といわれました。その状況下で実質的に政治を動かしていたのが「下馬将軍」といわれた酒井忠清でした。この「下馬」とは彼の屋敷が大手門下馬札前にあったからです。

忠清の時代の大きな事績としては、殉死禁止令と大名証人(人質)制度の廃止があります。彼の時代は戦国時代的な武力をベースとした支配が終結し、官僚による文治政治が完成する時代です。この時代に幕府の職制も固まりそれまで無かった役職に対する給与も定められて基盤の弱い旗本を支援する体制が出来ています。

さて、病弱な家綱がやがて子供のないまま危篤状態に陥ると亡くなると彼は後継者として皇族から皇子(有栖川幸仁親王)を迎えて将軍に立てようと主張しますが、これに反対したのが堀田正俊(春日局の養子)でした。そして堀田は家綱の弟・館林綱吉を秘かに家綱の死の床に呼び、家綱に綱吉を養子にすることを承諾させてしまうのです。

(一説によるとこの時既に家綱は死んでいたとも)

そうして大逆転して綱吉が次期将軍になると、当然のことながら忠清はただちにお役御免を申し渡されます。忠清は幕閣から退くと急に老け込んでしまい翌年わずか58歳で亡くなっています。

しかしその堀田正俊は4年後江戸城内で稲葉正休に暗殺されてしまいました。暗殺の真相はわかっていませんが、綱吉が恩着せがましい正俊を煙たがったためとも言われます。


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