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喜多川歌麿(1753?-1805)

文化2年(1805)江戸後期の代表的な浮世絵師の一人、喜多川歌麿(1753?-)が亡くなりました。

江戸浮世絵は狩野派・土佐派といった公式の絵師たちの流れから外れた町絵師たちの手によって隆盛をほこりました。

その様式を確立したのは菱川師宣(1618頃-1694)で、その直系に鳥居清信・鳥居清長ら鳥居派の絵師たちがいます。そして華麗な世界初の多色印刷・錦絵の手法を確立したのは鈴木春信(1725?-1770)です。

大きな流れをつくったのは歌川派と葛飾派系で、前者は歌川豊春(1735-1814)を祖とし、歌川豊国(1769-1825)・歌川(安藤)広重(1797-1858)らの俊才を生み、その伝統は現代の伊東深水(1898-1972)まで受け継がれました。

後者は宮川長春(1682-1752)を祖とし、勝川派の祖・勝川春章(1726-1792)、葛飾派の祖・葛飾北斎(1760-1849)、渓斎英泉(1790-1848)などを生みだしています。

特に葛飾北斎は師の勝川春章から学んだ浮世絵の伝統に西洋絵画の手法も付加して新しい感覚の浮世絵を創造し、代表作・富嶽三十六景は逆にヨーロッパの印象派に影響を与えました。(*1)

しかしこういった大きな絵師系列から外れた所からも優秀な絵師は出ており、その代表が、喜多川歌麿と東洲斎写楽(1794-1795に活動)でしょう。

この二人はいづれも天才版元・蔦屋重三郎が発掘して売り出した絵師です。

このうち写楽は当時はあまり人気が出ずにわずか10ヶ月で活動を停止していますが(*2)、歌麿の方は絶大な人気を得て、後世の浮世絵師にも強烈な影響を残します。

彼は美人画を得意とし、初期の頃は勝川派の影響を受けた作品なども描いていますがのちに独自の境地を開拓、寛政3年(1791)以降「美人大首絵」という新しいジャンルを確立しました。

代表作に「婦女相学十体」、「娘日時計」や寛政三美人の絵などがあります。

------------------------------------------------------------------(*1)歌川派がずっと「歌川」の名前を継いで来た、いわば正統派であるのに対して、宮川・勝川・葛飾・渓斎といった流れはどんどん名前を興しています。いわば異端の流れともいうべき所でしょう。前者はいわばクラシック、後者はいわばロックです。

(*2)写楽について「誰が写楽か?」という議論がよくあるのですが、結局のところ、写楽は写楽(斎藤十郎兵衛)だというのが、私は一番信頼できるように思います。現代でもパッと出てパッと消えるアーティストはいろいろな分野で多くいるわけで、無理に当時の他の誰かの変名ではないかと疑うのは、少し無理があるような気がしてなりません。1997年にはようやく斎藤十郎兵衛の過去帳が発見され、斎藤十郎兵衛が架空の人物ではなかったことがより確実になっています。


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