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藤原基経(836-891)

堀川の大臣こと、昭宣公・藤原基経(ふじわらのもとつね,836生)は寛平3年(891)1月13日に亡くなりました。基経は平安時代初期の重要な政治家のひとりです。

藤原北家の繁栄は、藤原冬嗣(ふゆつぐ,775-826)に始まりますが冬嗣は左大臣までしか昇進していません。その子の良房(よしふさ)は清和天皇の摂政として権力をふるいました。そして次の世代の基経が日本史上初の関白の地位に上がったのです。

(時々皇族以外で最初の関白と書かれている資料もあるが、基経以前に関白は存在しないので「皇族以外」もなにもあったものではない)

大きな権力を持った良房でしたが悩みもありました。それは自身子供に恵まれなかったことです。一人だけ女の子が生まれ(明子)文徳天皇に嫁がせますがその文徳天皇の子である清和天皇に嫁がせるべき娘、そして自分の後継者とすべき息子がいませんでした。

そこで彼は早死にした兄長良の子供達に目を付け、基経と高子(たかいこ)の兄妹をそろって自分の養子にし、高子を清和天皇に嫁がせるとともに基経を自分の後継者にしました。

高子は在原業平と恋仲にあり駆け落ち未遂をしたこともありますが(伊勢物語)良房と基経は強引に清和天皇との結婚を進めてしまいます。やがて良房が亡くなり基経の代になると、基経は清和天皇を退位させ、高子の子である陽成天皇を即位させました。そしてこの天皇の下で基経は関白に上り詰めるのです。

ここで関白というのは本来は正式の官職名ではありません。何を持って関白というのかというと「内覧権」といい、天皇に奏上される全ての文書に天皇より先に目を通してチェックする権利を指しています。基経は陽成天皇の下でこの権利を確立し光孝天皇の時代にそれを制度化していったので初の関白といわれるわけです。基経は清和・陽成・光孝・宇多と4代の天皇に仕えていますが、最後の宇多天皇が就任時に基経をその内覧の地位に再任するため「みな太政大臣に関り白し、然るのち奏下」せよという詔を出しており、ここから『関白』という言葉自体は生まれています。

さてこういう時、任命された者は儀礼的に1度辞退するのが習慣です。しかし「それでもやはりやってください」とお願いされて「そこまで言われるのであれば」といって就任するという習わしになっています。権力に執着しているわけではない無欲な者であるということをアピールするわけです。

そこで宇多天皇も2度目の就任要請を出しますが、この時の文章を橘広相が起草しました。ここで広相は当時はまだ関白ということばが確立していなかったため、この役職を中国の官制にならって「阿衡(あこう)」と表現し「阿衡の佐をもって卿の任とせよ」という詔にしました。ところが阿衡というものを別途よく調べてみると、どうも肩書きだけで実権のない仕事らしい、ということが明らかになり、ここで基経は怒って半年間のストライキに入ってしまいました。

実質的に権力を持っている人が半年も出仕してきてくれないと、天皇としては何も仕事が進められません。困ってしまった宇多天皇はやむなく文章を起草した橘広相を罷免し、また基経にも宇多天皇にも近かった菅原道真が天皇と基経の関係の修復に務めたため、基経は天皇の詔を受け入れて無事関白に復帰します。これを「阿衡の儀」といい、世の中に天皇より藤原家の方が偉いのだ、ということを知らしめる事件となりました。

なお平安末期には、藤原家内部の争いのため、藤原忠通という関白がいるのにその弟の藤原頼長が内覧になるという、おかしな事態が起きて権力構造が混乱し保元の乱(1156)を誘発しました。

藤原基経の事績としては、文徳実録の編纂、大内裏の拡張工事、東北地方で起きた元慶(がんぎょう)の乱の平定、などがあります。また近衛中将時代には「応天門の変」の処理を行い、大伴一族を政界から追放しました。

なお基経の子供が時平・仲平・忠平の三兄弟で、のちに時平は菅原道真と対立して延長8年の内裏落雷事件へと時代は流れていきます。

なお藤原基経は宇津保物語では、父の意向に背いて俊蔭の娘と愛し合う藤原兼雅に相当するものと思われます。(太政大臣が良房)


(2004-01-12)

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