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建礼門院(1155-1213)

建保元年12月13日、京都大原寂光院で建礼門院・平徳子(けんれいもんいん・たいらのとくこ)が亡くなりました。

建礼門院は平家の天下を一代で築いた太政大臣・平清盛と、桓武平氏の宗家(堂上平氏)の娘・平時子(二位の尼)の間の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母です。

平清盛は平氏の中ではかなり傍系に属す人ですが、保元の乱・平治の乱で武功をたて、その後二条天皇と後白河上皇の対立をうまく利用して、次第に政治的権力の基盤を確立していきます。

平時信―――平時忠|+―平時子(二位の尼)|  ‖―――平徳子(建礼門院)| 平清盛   ‖|       ‖――安徳天皇(言仁)+―平滋子   ‖‖―――高倉天皇(憲仁)後白河上皇(雅仁)

やがて、仁安2年(1167)清盛は太政大臣になり、翌年は甥に当たる憲仁親王が皇位につき(高倉天皇)、承安2年(1172)には、徳子が高倉天皇の中宮となって、清盛の天下は最高潮に達します。『平氏にあらずんば人にあらず』と言ったのは、時子の同母弟・平時忠です。

しかしその後滋子(建春門院)がわずか35歳で病没(1176)した後、後白河上皇と清盛の関係は冷え切り、翌年には鹿ヶ谷の変が起きて俊寛らが鬼界ヶ島に流されることになります。

鹿ヶ谷の変の翌年(1178)11月徳子と高倉天皇の間に言仁親王が生まれますと、1ヶ月後、清盛は親王を皇太子にし、翌年後白河上皇を幽閉するとともにその側近を追放、1180年2月には生まれてわずか15ヶ月の親王を皇位につけて安徳天皇としました。

しかしこの時には既に清盛の命の炎が燃え尽きようとしていました。清盛は翌年閏2月病没。それとともに平家自体の炎も燃え尽きていきます。

安徳天皇が践祚した1180年の4月には以仁王(後白河天皇の皇子)が平家打倒の令旨を出し、8月には伊豆で源頼朝、9月には源義仲(木曾義仲)が木曾で挙兵、10月には源義経が頼朝に合流しました。

源氏と平氏は北陸と東海で激突、その戦乱のさなかに清盛が没すると、戦いは一気に源氏側の優勢になっていきます。そして1183年7月28日木曾義仲が京都に入り、その直前の25日、平家一門は安徳天皇・二位の尼・建礼門院らとともに西海に落ち延びていきました。

これに対して源氏は源義経を中心とする軍勢が1184年2月7日一ノ谷、1185年2月19日屋島、同3月24日壇ノ浦の合戦で次々と平氏を打破、平家一門は関門海峡に沈んでいきます。

この3月24日昼過ぎ、実質的な平氏の大将・平知盛は女たちに敗戦を告げます。二位の尼は天皇家の三種の神器である草薙の剣を腰に帯び、八尺勾玉を脇にはさみ、孫である安徳天皇を抱いて船縁に進みました。数えの8歳の安徳天皇が「尼御前、私をどこに連れていくのか」と問いますと、二位の尼は「波の下にも都はございましょう」と告げ、そのまま海に飛び込みました。

二位の尼に続いて建礼門院が飛び込み、続いて大納言佐局(平重衡の妻)が三種の神器の内のもうひとつ八咫鏡を持って海に飛び込みました。

しかしそこに源氏の武士たちが船に飛び移って来ました。武士たちはまだ波間に漂って沈みきっていない二人の女を引き上げ、その一人の女が建礼門院であったことに息を呑みました。八咫鏡も無事回収されます。

(一説によると建礼門院の衣服に飛んできた矢が刺さり、そのために沈みきれなかったとも。しかしそれは大納言佐局の方であったとも。また大納言佐局はまだ飛び込む前で、建礼門院が助けられたのを見て武士たちに門院の身分を明かして決して粗末に扱わないようにと厳しく言い、次いで飛び込もうとした所を抱え止められたとも)

(八尺勾玉は波に漂っているのを回収されたが、草薙の剣は見つからなかった。もっとも草薙の剣の本体は元々熱田神宮にあり、この時沈んだものはその分霊として祭られていた剣である。八咫鏡も本体は伊勢神宮にある)

(剣は武力を表すので、この時剣が失われたことから、天皇家は武力に対するコントロールを失い武家政権が誕生した、と指摘する神秘学者は多い。)

壇ノ浦で救われた建礼門院は京都に護送され、髪をおろして出家します。時に29歳。そして女房の一人右京太夫の助言で大原の地に庵を結びました。彼女はここで亡くなるまで28年もの年月を静かに念仏三昧で過ごして、平家の人々の霊を弔います。出家の翌年、彼女を気遣った後白河上皇が庵を訪れました。その時建礼門院は涙が止まらなかったといいます。平家物語は、この建礼門院の侍女・横笛の悲恋も併せて伝えています。


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