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嵯峨天皇(786-842)

 第52代天皇の嵯峨天皇は桓武天皇の延暦5年(786)9月7日に生まれました。父は桓武天皇、母は藤原良継の娘・乙牟漏で加美能(かみの)と名付けられました。平城天皇(名は安殿-あて-)の同母弟になります。この時代はまだ親王に「仁」という字を付ける風習は生まれていません。天皇は京都の嵯峨野の地を愛し、そもそも「嵯峨野」という地名はこの天皇に由来しています。

 この付近の藤原式家の系図を見てみましょう。宇合―+―広嗣+―良継―乙牟漏(桓武天皇皇后・平城嵯峨母)+―清成―種継+―仲成|      +―薬子(平城尚侍)+―百川+―緒嗣+―旅子(桓武女御・淳和母)この時代は式家の時代であり、冬嗣が登場して北家が栄え出すのはもう少し先です。広嗣は聖武天皇の時代に九州で乱を起こした人ですね。種継は長岡京の建設の責任者で、工事中に何者かによって殺害され、その嫌疑が皇太子早良親王にかかって親王は自ら死を選ぶという事件が起きています。親王の霊は怨霊になったといわれ、崇道天皇の諡がされて御霊神社に祭られることになります。さて時代が移って平安京を造った桓武天皇の崩御(806)に伴いまず平城天皇が践祚しますが、病弱であったことからわずか3年で、弟の嵯峨天皇に譲位されました(809年4月1日)。平城上皇は引退後の静養の地として、故都・平城京を選び、遷都後荒れてた奈良の地を整備して、宮城も修造します。そしてしばらくすると、引退によって天皇の重責から開放されたことが精神的にプラスに作用し、上皇は再び政治的な意欲が沸き上がってきました。その気持ちを支えたのが藤原仲成・薬子の兄妹でした。薬子は平城天皇の女御の地位は持っていません。尚侍という低い地位ではありますが、帝の寵愛を受け、兄の仲成と共に政治的な影響力を強く持っていました。彼らは平城天皇が即位してまもなく、まず最大のライバルであった藤原南家の藤原吉子とその子の伊予親王に無実の罪を着せて失脚させ、桓武天皇の親任が篤かった藤原緒嗣も東北に左遷してしまいます。そのまま順調に国政をわがものにしようとしていたところで、突然の天皇の譲位で彼らの野望は挫折していたのでした。しかしここにきて平城上皇が再び政治的な力を発揮しようとし始めたことから、兄妹はそれを強力にバックアップし始めたのです。そしてここに平安京への遷都に不満を持っていた人たちが上皇の周囲に集まり始めました。その勢力は平安京の嵯峨天皇側の勢力に匹敵するほどの大きさに成長して行き、状況はまるで、都が平安京と平城京の2ヶ所にあって帝が2人いるかのような感じにまでなってしまいました。そして大同5年(810)、平城上皇は平城京の修復に功のあった人たちに勝手に叙位を行います。これに対抗して嵯峨天皇は藤原薬子が掌握していた内侍司を命令伝達のルートから外し、新たに蔵人所を設置して、天皇の命令はここから出るように機構改革を行いました。すると上皇側は9月6日、平城京遷都の詔を出し、天下の人心は動揺しました。内乱勃発の危機感が高まる中、天皇は10日、一連の騒動の原因は全て仲成・薬子の兄妹にあるとして、仲成を佐渡に左遷、薬子を宮中から追放する命令を出します。天皇としては実兄の平城天皇を傷つけないためには全ての責任をこの二人に押しつけるしかないと判断したのだともいわれます。

 しかしこれに対して上皇側は愚かにも軍を動員し、奈良からいったん東国へ出て勢力を整備しようとする動きに出ました。しかし天皇は坂上田村麻呂に命じて各地の関所を固めさせ、そのためいったん動き出した上皇軍も身動きが取れなくなってしまいます。11日に仲成が射殺されてしまったこともあり上皇軍は結局東行を断念して平城京に戻り、薬子も自殺。上皇は剃髪して仏門に入り、この乱はギリギリの所で本格的な戦闘を回避して終結しました。これを後世「藤原薬子の乱」と呼んでいます。この乱の一連の進行の過程で、嵯峨天皇のそばにあってブレインとして活躍したのが、当時唐から戻ったばかりの空海(弘法大師)で、その功により天皇は空海を深く信任するに至ったといわれています。一般には仲成・薬子らを調伏したとされているのですが、土木工事の指揮などもしている知識の幅の広い空海ですから、この乱では遁甲的な助言などもしたかも知れません。

 この空海と嵯峨天皇自身、そして橘逸勢(嵯峨天皇皇后である檀林皇后の従兄)は名書家として後世「三筆」と称えられます。天皇はこの空海や橘逸勢などをはじめ非常に多数の文化人を嵯峨野の院に集めて、彼らを支援、平安の華やかな文化の基礎を作る働きをしました。

 そんな中に小野篁もいました。

 ある時御所に「無悪善」という落書きがあったのですが、何のことなのか、誰も読めませんでした。そんな中、篁が「それは、サガ無くば善からん」と読むのでしょう、と言ってしまいました。他にも読めた人はいたかも知れませんが、その意味する所に気付いて口をつぐんでいたのだろうと思います。「サガ」は「罪」の意味ですが、当然嵯峨帝に通じます。

 するとそれを聞いた天皇はたちまち不快な表情を見せて、お前だけが読めたというのは、本当はお前が書いたのではないのか?と言います。群臣が居たたまれず目をそらす中、小野篁は平気な顔をして「私はどんなものでも読めますから」と言い切ります。すると天皇は「だったら、これを読んでみよ」と言って、次のようなものを書いて篁に突きつけました。子子子子子子子子子子子子すると篁はまた平気な顔をして「ねこのこは、こねこ、ししのこは、こじし」(猫の子は小猫、獅子の子は小獅子)と読んで見せました。「子」の字を「ね」「こ」「し」と3通りに読み分けたものです。さすがに嵯峨天皇も笑って、この件はそれまでにしたとのことです。この話は鎌倉時代の宇治拾遺物語に収められている物ですが、嵯峨天皇という呼び名は亡くなった後に贈られた諡号ですから、辻褄が合わないことですが、まぁいいでしょう。


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