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栄西禅師(1141-1215)

日本に禅宗をもちらした栄西禅師は栄治元年(1141)に生まれ、建保3年(1215)7月5日に亡くなりました。

禅とは仏教における瞑想の技法であり、釈迦の時代から重要な修行法として使用されていました。釈迦が菩提樹の下で瞑想をして悟りに到達したのは有名な話です。この禅を行うことをその中核に据えたのが禅宗であり、その歴史は一般にインドから中国へやってきた達磨大師(6世紀)に始まります。

その後五祖弘忍のあとを正式には神秀が継いだものの弘忍自身は実はひときわ大きな器を持つ慧能にも密かに衣鉢を与えます。弘忍は騒ぎを避けるため慧能を南方に逃し、以後神秀の系統を北宗禅、慧能の系統を南宗禅といいます。そしてその後の禅は南宗禅の系統が発展し、これにより慧能は六祖とされ慧能の偉大さ故に「祖」を付けるのは慧能までとしています。

この慧能の弟子の行思の系統からやがて曹洞宗が、懐譲の系統からやがて臨済宗が生まれました。日本の禅はこの臨済宗・曹洞宗と、江戸時代にインゲン豆で知られる隠元禅師が伝えた黄檗宗、そして虚無僧で知られる普化宗があります。黄檗と普化はいづれも臨済系の一派です。

栄西は岡山の吉備津宮の神官の家に生まれました。(この吉備津宮にしろ奈良の石上神宮にしろ、こういう古い神社の周辺には偉大な宗教家を生む環境があるようにも思います。)14歳で比叡山に上がりその後2度にわたって中国に留学。黄龍派の臨済を学びました。

帰国後、栄西は最初博多の聖福寺(1195)を拠点として活動を始めます。これは当時京都では天台宗・真言宗の2大平安仏教の勢力が強く、この新しい仏教を奉じた活動をすることはできなかった為です。そこである程度理解者が増えると今度は、頼朝が開いた新幕府のお膝元・鎌倉へ赴き、ここで幕府の中核に働きかけ北条政子の援助で寿福寺(1200)を建てることに成功。

そして更に幕府の庇護のもとでようやく京都に建仁寺(1205)を建て、以後栄西は京都と鎌倉を頻繁に往復して、精力的な活動を続けます。この栄西の活動により、仏教には天台・真言以外にも色々あるのだということが人々に認識され、以後の道元(曹洞宗),法然(浄土宗),親鸞(浄土真宗)らの活動を支える下地が形成されることになります。


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