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一遍上人(1239-1289)

正応2年8月23日、踊り念仏の一遍上人が亡くなりました。

この辺りの浄土宗の系譜を大雑把に書いておきます。

円仁-+->空也-+---------------------------------------+ ↓   ↓ ↓ +->良源-+->源信--->法然-+->親鸞 (浄土真宗) ↓ | ↓ +->証空 (浄土宗西山派) -+-> 一遍 -->(時宗) | +->弁長--->良忠(浄土宗鎮西派)-->一向 (一向宗)

踊り念仏の実質的な創始者は空也上人(903-972)です。一遍上人はその300年後の延応元年(1239)に松山で生まれました。水軍の家系でしたが10歳で出家し、西山派の浄土宗に触れます。いったんは父の死により家を嗣ぐため還俗しますが相続問題でのトラブルを契機に再度出家。妻・娘・下女の4人で諸国行脚しながら念仏を唱えるという生活に入りました。文永11年(1274)のことです。

この間、信濃の善光寺での参籠、高野山での高野聖たちとの交流(当時中国から念仏禅を持ち込んだ法燈国師と会っているかも知れない)を経て、熊野権現で神勅を得、念仏札の配布を始めます。これは念仏を唱える人のみならず唱えてない人にもどんどん配るというもので、今でいえば宣伝チラシのような画期的な布教方法でした。

一行は熊野からいったん九州へ赴き、再び本州に戻って善光寺から今度は東北まで行き、やがて生まれ故郷の四国へ戻って最後は兵庫の西宮で亡くなっています。踊り念仏を始めたのは弘安2年(1279)のことで、これは田楽(でんがく)などの基礎文化とも融合して、全国に爆発的な広がりを見せます。人々は貴賤の別なく踊り興じて南無阿弥陀仏を唱えました。その中のある者は一遍上人に連れ添って或いは別行動で諸国を行脚し、またある者は在家のまま念仏を唱えます。

現在、念仏や法華の題目を唱えている人たちの文化を見ている私たちには信じられない話ですが、平安時代の中期頃までは念仏というものは僧が唱えるもので、それを聞くことのできるのも貴族階級に限られていました。それを在家の者でも唱えてよいのだとし、貴族だけでなく一般大衆にも広めていったのが、空也であり、一遍であり、一向であり、数多くの高野聖・時宗聖たちでした。

一遍はそういった流れの中にあって念仏者たちの鑑であり、心の支えであり、生き仏とみなされました。

遺偈「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になり果てぬ」。墓などは作らず遺体は野に捨て置いて獣に布施するようにと言い残して世を去りました。


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