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日蓮(1222-1282)

それは建長5年(1253)4月28日の朝でした。

比叡山で修行を積んだ32歳の僧・蓮長が清澄山旭ヶ森で日が昇るのを待っていました。そして海の向こうにご来光が射して来た時、僧は大きな声で10回唱えました。

     『南無妙法蓮華経』

と。

後に「日蓮」と名乗り歴史に大きく名前を残す大聖人(*1)の立教の瞬間でした。

蓮長はその日の正午、清澄寺の持仏堂の南面でごく少数の人を相手に説法を始めます。仏の教えの真髄は法華経にある。他の経は法華経を説くための方便に過ぎない。法華経に絶対帰依して「南無妙法蓮華経」と誰もが題目を唱えることにより、この世界が常寂光土になるのだ。

それはこの世ならぬ西方浄土に救いを求める浄土教・個人単位に悟りを目指す禅宗に対して、現世をこそ救うべきである、という若き日蓮の激しい信念が燃え始めようとする瞬間でもありました。

日蓮は承久4年(1222)2月16日に安房の国に漁師の子として生まれ、幼名は善日麿といいました。12歳の時この清澄山に登り、清澄寺御本尊の大虚空蔵菩薩に「日本一の知者となし給え」と願を掛け、その後17歳まで清澄山で修行、20歳の時に比叡山に移って更に修行を積みます。

その間彼を悩まし続けたのは、釈迦の教えは一つであるはずなのになぜ多数の宗派が存在するのかということと、仏法の栄える国は平和である筈なのになぜこのように国が乱れているのだろうかということでした。そして15年間に及ぶ探求の末彼がたどりついた結論は、それは邪宗がはびこっている為であるというものだったのです。

日蓮は言います「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」そしてこのままでは益々国が乱れやがて外国に侵略されて国が滅びるから、一刻も早く国を挙げて法華経に帰依するようにという『立正安国論』を幕府に提出します。

しかし当然ながら彼の言動には他宗派が猛反発。彼及び彼の信奉者たちは激しい攻撃を受け、多数の弟子が殺されたりしますが、彼らもまた寺院を焼き討ちしたりして応酬しています。他宗派は幕府を動かし、文永8年日蓮は逮捕されて佐渡に流罪とされ、しかも密かに途中で処刑するように護送の武士に命令が下されました。

護送の一行が9月12日夜鎌倉の龍口の海岸を通りかかった時、武士が日蓮を馬から降ろしました。一緒に護送されていた弟子が察して「こいつら、お師匠様を斬るつもりです!」といって日蓮をかばおうとしますが日蓮は制して「斬るなら斬りなさい」と言います。その時。

海の向こうに突然大流星が出現しました。

まるで昼間になったかのようなもの凄い光。護送の武士たちも日蓮の弟子たちも我を忘れてその光をただ見つめていました。その中日蓮はその流星に向かって静かに合掌。その場にいた人たちはそこにまさに仏を見ました。そして光が消えた後、もう武士たちは日蓮を斬ることはできなくなっていました。結局そのまま佐渡まで護送。日蓮は難を逃れました。

3年後の文永11年(1274)3月、モンゴルの襲来する気配が迫って幕府は日蓮を赦免し、佐渡から呼び寄せて襲来の時期はいつと思うかと尋ねます。日蓮は今年中には来るでしょうと答え、蒙古を調伏するには法華経以外ないと言いますが、幕府は採用しません。日蓮は静かに甲斐の身延山の草庵(現在の久遠寺)に引きこもりました。

日蓮の予言通り蒙古は10月に来襲、日本はかろうじて勝ったものの大きな傷跡を残しました。日蓮はその後を法華経の今後の普及のための著作と伝道に捧げ、弘安5年(1282)10月13日、武蔵の国・池上で亡くなりました。現在池上本門寺の建つ場所です。

---------------- *1: 日蓮宗では日蓮が大聖人、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六老   祖を聖人と呼ぶ。そのほかはみな上人で、普通のお寺の住職でも上人。   浄土真宗では親鸞のみが聖人で、代々の本願寺の法主が上人。   浄土宗では法然が上人で、聖人はいない。


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