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出口なお(1836-1918)

天保6年(1836)12月16日、福知山で大本教の開祖となる、出口なお(なを)が生まれました。

幕末頃から明治初期にかけての新宗教ラッシュには目を見張るものがありますが、中でも特筆すべき存在は、中山みき(1798-1887)の天理教、香取源七(1814-1883,後改名して金光大神)の金光教と、この大本教でしょう。

これらの宗教に共通しているのは、封印されていた神の復活をうたっていることで、その流れは大本教に国家的弾圧が加えられたあと、岡本天明らへと引き継がれています。

出口なおは、ごく普通に育ちごく普通に結婚し、8人の子供を育てて、やがて52歳の時に夫と死別。その後、長男は行方不明、次男は戦死、娘の内2人が心の病にかかる苦労に見舞われます。

そんな中で55歳の時、彼女は霊夢を見、突然神懸かりになり、艮の金神のお告げを受けます。最初周囲からは、おかしくなったかと思われますが、やがて自動書記による「お筆先」を書き始め、病気治しの祈祷をするようになって、信者がつくようになります。

これだけですと、彼女は一介の小さな教祖様で終わっていたところですが、運命は大きな出会いを用意していました。

山籠もりの修行をして祈祷師をしていた上田喜三郎(1871-1948)がお告げをうけてこの地を訪れ、偶然なおの三女ひさに出会い、なおの理解者となりました。

大教団の成立には、カリスマ的教祖に加え、運営手腕に優れたサブが必要なものですが、喜三郎はまさにその運営手腕のある人でした。

なおは五女のすみと喜三郎を結婚させ、喜三郎の力によって教団は成長することになります。そして、なおの筆先によって、喜三郎は名前を出口王仁三郎と改めます。

しかし、なおは日露戦争で日本が負けることを予言したのにこの予言が見事に外れてしまいました。失望した信者らがなおの元を去り、また何かとなおと対立するようになっていた王仁三郎も教団を離れます。この後、教団は非常に困窮し、なおの筆先を書き留める用紙にも事欠く状態であったといいます。

しかし2年後、王仁三郎は教団に復帰。彼の元で教団は再組織化され、再び大きく発展しました。それとともに王仁三郎は教団の全権を掌握。教義の体系化を図り、教団も合法的なものに変えて、国家神道の枠組みの中に収まるよう尽力します。

その様子を見守りながら、なおは大正7年死去。その墓はのちに大本教への弾圧の際、破壊されてしまいました。

※出口なおの誕生日については天保7年の1月3日説、1月22日説もあります。


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