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前島密(1835-1919)

現在の1円切手に描かれている「郵便の父」前島密(まえじまひそか)は天保6年1月7日(1835年2月4日)越後国津有村(現上越市)で生まれました。出生時の名前は上野房五郎です。父は豪農ですが房五郎が生まれてまもなく亡くなっています。

4歳の時母と共に高田に移り、侍の娘で学のあった母から初等教育を受け更に糸魚川の藩医をしていた叔父・相沢文仲から医学の基礎を学びました。

弘化4年(1847年)、本格的に医学を学ぶために江戸に出て、開業医・上坂良庵、幕医・長尾全庵などに師事。また医学書を読む傍ら、兵法や西洋事情などの本にも触れます。嘉永6年(1853年)のペリー来航の折には、浦賀奉行・井戸弘道の従者を務め、アメリカの圧倒的な軍事力を目の前にしました。

強烈なショックを受けた彼はその後日本各地の港湾を見て回り、国防について思いを巡らせます。やがて安政4年(1857年)には観光丸に見習生として乗船。機関術などを学びます。

さらに翌年には巻退蔵と名乗り函館に赴いて、武田斐三郎に航海術を学びました。武田斐三郎は奇才で、ストーブの発明者としても知られている人です。その後彼は函館の函館丸、松江の八雲丸、福井の黒竜丸、和歌山の明光丸など、いくつもの船の乗員として活動しました。

慶応2年(1866)年には江戸に出て、前島錠次郎の養子になり、名を前島来輔と改めました。この年結婚。

彼はこのあと、開成所の教授をはじめ、様々な役職を歴任します。若くして精力的にあちこちに学んだだけのことがあり、ひじょうに開明的な人であったようで、開成所時代には漢字廃止論(誰でも覚えられる仮名文字で文章を書くようにして国民の文化レベルを上げようという論)を提出したりしています。

これはさすがに採用にならなかったものの、明治維新に伴う新しい都をどこにするかというので、前島密は大久保利通の大坂遷都論に対して江戸遷都論を唱え、天皇の東京行幸に道を開いています。

つまり日本経済の中心都市である大坂にするか、日本最大の都市である江戸にするかという論争だったのですが、結果的には前島らの主張が通りました。

この明治維新のあとで彼は名前を前島密に改めています(明治2年頃)。

明治2年には新政府で民部省改正掛に任じられ鉄道関係の仕事をしますが、東海道の駅を利用した「郵便」の創設を提案。そして、郵便や鉄道に関する調査のため、1870-1871年にはイギリスに渡りました。

帰国後の彼の活動はまた精力的です。

帰国後はまず駅逓頭(のち駅逓局長→駅逓総監)として、日本の郵便制度の創設に努力。切手の消印なども、この時彼がイギリスで学んできたものと言われています。(最初は再利用されないように、ものすごく薄い紙にしようかなどと考えたりしていたとのこと)

まだ役人をしていた頃の明治5年には、陸海元会社(現・日本通運)と郵便報知新聞(のちの報知新聞)の設立に関わっています。

明治14年には政府を辞して、立憲改進党の創立に関わります。

明治19年には関西鉄道社長に就任。また東京専門学校(現・早稲田大学)校長にも就任。

明治27年には北越鉄道の社長に就任。明治38年には貴族院議員に就任。

北越鉄道は現在の信越本線の一部です。関西鉄道は関西本線・紀勢本線・和歌山線・大阪環状線などになっています。特に関西鉄道は当時、官鉄の東海道本線と激しい乗客獲得争いをした所。弾丸列車(後の新幹線)構想の発案者である、島安次郎がいた会社です。

一人で3人分くらい生きたような、とても精力的な活動をした人でした。大正8年(1919年)4月27日没。享年84歳。


(2008-01-06)

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