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明治天皇(1852-1912)

明治天皇の誕生日は11月3日ではないかと思う方も多いと思うのですが、それは太陽暦での話。このシリーズは基本的にその当時の暦で書く方針を取っておりますので、それでいくと嘉永5年9月22日未下刻(14時半頃)ということになります。はじめ祐宮(さちのみや)と名付けられました。

明治天皇の御生母は中山慶子権典侍(権大納言中山忠能の次女,のち従三位・大典侍)です。良家の娘ばかりの当時の後宮において、身分も低く田舎育ちであったものの、孝明天皇は逆にそれが新鮮な魅力にうつって御子誕生ということになったとも言われています。時代的背景もあり、宮中で純粋培養するよりも自然に育てた方が良いとの方針で8歳になるまで中山家で養育され万延元年(1860)9月28日親王宣下、睦仁(むつひと)の名を賜ります。

そして慶応2年(1866)12月25日孝明天皇が急死すると年明けの同3年1月9日弱冠15歳で践祚。天皇となりました(即位は翌4年8月27日)。なお睦仁親王の上には3人の皇子がいましたがいづれも夭折しており、孝明天皇の子で大きく育ったのは結局明治天皇だけでした。(准后九条夙子も内親王を一人産んでいるがやはり夭折している。当時の天皇家の血統は危機的状況であった。これは五摂家の娘でなければ女御になれない当時のしきたりに問題があったともいわれている)

世が世であれば天皇は学問や文芸だけをしていれば良かったのですが時代はそのようなことを許してはくれませんでした。

まだ即位式もあげていない慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜が大政奉還を請い24日には将軍職の辞職を建白。これをうけて朝廷では12月9日王政復古の号令を発して将軍職を廃止しました。明治維新です。

明けて慶応4年3月14日には五箇条の御誓文が発表され、4月11日江戸城開城。7月17日江戸を東京と改名、8月27日に即位式をあげると9月8日明治改元、同20日には日本の分裂を避けるため天皇は京都を発って東京に向かい10月13日江戸城に入って東京城と改名しました。

更に天皇が東京に移動したことに動揺した京都の人々のために天皇は12月にはいったん京都に戻り12月28日一条勝子入内(結婚にあたって美子と改名)。美子は天皇より2つ年上で、17歳と19歳のとてもお若いカップルでした。

ちなみに美子(はるこ,昭憲皇太后)は明治天皇の子供は産んでいません。体質が弱く子供が産める身体ではなかったとも。この非常に困った状況を改善すべく明治4年と5年に後宮の大改革が行われ、当時の上級女官のほとんどが罷免され、以後の女官は家柄に関係なく登用されることとなり、やがて柳原愛子(なるこ)が大正天皇となる明宮(はるのみや)を産みます。明治天皇の成人した子供は5人ですが皇子は明宮のみでした。

さて、話を戻して天皇は明治元年12月に京都に戻ったものの翌年3月には再び東京へ移動。「天皇が東京に滞在中は太政官もそちらに置く」という玉虫色の遷都?宣言を行います。そしてこの年各藩が相次いで版籍を奉還し、日本は天皇を中心とする新しい国家として生まれ変わりました。

さてこの激動の時代に国を動かしていたのはいったい誰でしょう??

慶応3年1月9日に二条斉敬が摂政となっていますが同12月9日には罷免されています。(彼は結局藤原家最後の摂政となった) 代わってトップに立ったのは和宮の元婚約者としても知られる有栖川熾仁親王で、同月明治政府の初代総裁に任命され東征大総督となって官軍を率いて江戸城入城を果たしますが、その後は三条実美がはじめ輔相(1868-69)、ついで右大臣(69-71)、太政大臣(71-85)となって実権を握っています。有栖川親王も三条も幕末から朝廷側で色々と動いていた人でいづれも1863年に公武合体派のクーデターにより中枢から追い出されています。それが恐らくは孝明天皇の死去によって公武合体派が挫折したことにより彼らのグループが復権。薩長の幹部と合わせた集団指導体制で急速な改革を進めて行ったのでしょう。

明治時代は同10年(1877)の西南戦争を最後に全体がひとつにまとまり、22年の大日本帝国憲法発布、翌年帝国議会の創設により政治体制も整備され、また富国強兵に務めて明治27〜28年(1894-95)の日清戦争、37〜38年(1904-05)の日露戦争を戦ってその実力を世界に誇示しました。

ひとつ間違えば西洋諸国のどこかの植民地にもされかねなかったこの時代に江戸時代の平和に慣れきっていてまさに黒船数隻にも何も抵抗できなかった武士たちに代わり国民皆兵による新しい軍隊を創設して大国と対等に戦える実力を育てていく一方で、どんどん西洋の技術を移入して工業の発展を促し繊維製品の輸出で利益を出せるようになり、また民主主義的な政治体制を少しずつ整備し、近代国家としての基礎を作っていった。これがうまくいったのはほとんど奇跡ともいうべきものです。

中国や朝鮮半島への干渉、女工哀史のような過度の社会的歪み、また後のシナ事変・太平洋戦争へとつながる軍部の暴走などの問題点はあったもののこの時代に事実上の国の統合の象徴として君臨したこの天皇はやはり名君であったのでしょう。

天皇は帝国憲法でも主権者とされ法制的には政治体制のトップにありますが実際には行政の責任は大臣にあり、また軍の指揮権も各軍のトップにあってその地位は実際には形式的なものでした。

しかし明治天皇は20歳になられた1872年から1881年まで10年をかけて全国各地を行脚し、そのほとんどの地で民家に宿泊。各地域で頑張っている人達を表彰して国民の志気を高揚しました。そのため私達は今でもあちこちで睦仁の署名のある額を見ることができます。昭和天皇が戦後行った全国行脚も、ある意味ではこの時の明治天皇の全国行脚の焼き直しでしょう。

また天皇は実際に戦争が始まると前線近くまで自ら赴いて兵士たちを激励してはいますが、日清日露の両戦争自体には一貫して反対の御立場であったとされ、山形有朋らの軍閥や伊藤博文らの好戦派政治家とは次第に距離を置いていったといわれます。そのため伊勢神宮への戦勝祈願・戦勝報告も拒否したりしており、そういった意志もまた昭和天皇に受け継がれていったのでしょう。


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