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夢野久作(1889-1936)

「ドグラマグラ」の作者として知られる作家の夢野久作は明治22年(1889)1月4日、福岡市小姓町に生まれました。幼名杉山直樹。

母が父の両親と合わず追い出されてしまい、彼は住吉神社近くの祖父母の家で育てられました。祖父は財産家で、直樹は小さい頃から能を学んだり中国の古典を学んだりしてかなり成績優秀であったようです。

修猷館から兵役後慶応義塾大学文科に入学しますが、大正2年に退学、同4年に出家して泰道と名乗り、また本名も萌圓と改めて、雲水として諸国を巡ります。そして大正6年頃から文学活動開始。この年弟が亡くなったため義母に懇願されて家に戻り、翌年結婚、8年には子供も生まれました。

大正9年九州日報の記者となり、その傍ら作家活動と農園の経営を続けます。しかし農園は経営が行き詰まり、関東大震災で東京の家が炎上、九州日報もかなり懐具合が苦しくなっていきます。この時期妻のクラも体調を崩しており、彼にとっては一番きつい時期であったようです。

大正14年博文館の懸賞に応募した小説「侏儒」が選外佳作、そして翌15年事実上のデビュー作となる「あやかしの鼓」が2等になり『新青年』で発表されます。この時はじめて夢野久作の名前を使用しました。そして翌昭和2年頃から本格的な作家活動に入ります。

初期の作品としては「死後の恋」(1928),「瓶詰の地獄」(1928),「押絵の奇蹟」(1929), 「犬神博士」(1931-1932) などがあります。

代表作「ドグラマグラ」は10年間にわたる何度もの書き直しを経て昭和10年に松柏館から刊行されました。何が真実なのかが分からないどころか、読んでいる読者本人の精神状態までだんだん不安定になってくる、この強烈な作品は当時はそれほどでもありませんでしたが、戦後になって大きく評価され、ファンを増大させることになります。

久作のこの10年間の活動はかなり精力的であり、毎年大量の作品を発表しています。しかし昭和10年頃から度々頭痛を訴えるようになり昭和11年3月10日次の作品の打ち合わせを深夜までやった翌日、11日東京渋谷の自宅で急死。

まだ47歳でした。

■ドグラマグラ

 時計の音で目が覚めた私は自分の過去も名前も思い出せなかった。そこに入ってきた若林教授は1月前に亡くなった親友の正木教授の新学説に基づいた画期的な治療を行うという。私は髪を刈られ風呂に入れられて学生服を着せられた。隣の病室に美少女が寝ていた。彼女は従妹で許嫁というこであった。彼女は私の顔を見ると「お兄さま」とすがりついてきたが私ははらいのけてしまった。

 私は正木教授の部屋に連れて行かれた。その中に私の記憶を呼び起こす物があるはずだというのである。私が手に取ったのは「ドグラマグラ」と書かれた原稿用紙の束であった。学生が正木教授と若林教授をモデルに書いた物語であるという。

 (ここから先は私もどう書いていいのやら、分かりません.....)


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