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一休(1394-1481)

文明13年(1481)11月21日卯の刻。「とんちの一休」でおなじみの、一休宗純禅師が亡くなりました。

権威を否定し、悟りさえも否定して、壮絶に庶民の中で生き抜いた、巨大な禅僧でした。「まともな」禅僧からは破戒僧と蔑まれ、庶民からは生き仏とあがめられた、強烈な人格でした。

「元旦は冥土の旅の一里塚。めでたくもあり、めでたくもなし」

彼はそう言ってお正月に髑髏を持ち歩いたりしました。女犯・飲酒・肉食をわざとのように行いました。

(髑髏を持って歩くシーンをTVのアニメシリーズで脚本に書いたのは辻真先)

一休が生まれたのは明徳5年(1394)の元旦であると言われています。幼名は千菊丸。

南北朝を統一した後小松天皇の御落胤ですが、当時はその南北朝の分裂が、やっと解決してまだ少し。南朝側の残党が残る時代。一休の母は藤原一族の出身(日野中納言の娘伊予局あるいは藤原顕純の娘藤侍従といわれる)ですが、南朝側と通じていることを疑われ、里に下がっての寂しい出産であったとのことです。

しかも、天皇の血を引く者として、誰かが何かにかつぎ出さないとも限りません。恐らく彼の周囲は常に何者かによって監視されていたでしょう。その身を保護し、欲がないことを示すためにも、彼は幼いうちに寺に入り仏門に励むことが必要でした。

6歳で安国寺に入り、周建の名前を与えられます。良家の子弟の多い寺で、身分を明かすことを許されない周建は苦労したようですが、次第にその才覚を発揮。寺の書庫をその住処として、数々の経典を読破します。

この頃のエピソードが「とんちの一休」の話となって後世まとめられました。

周建がかなり優秀な僧になりそうだということを知った権力者である前将軍・足利義満は、周建を師匠とともに自分の邸宅に招き、場合によってはそのまま闇に葬ろうと考えました。この時、出された食事の中に魚が入っていたので師匠はそれを食べませんでしたが、周建は食べてしまいました。すると、義満は「僧が魚を食べるとは何事?」と詰問します。

それに対して周建は「喉は単なる道路です。八百屋でも魚屋でも何でも通します」と言ってケロリとしています。

それにムッとした義満は刀を抜いて周建の眼前に突き出し「ならば、この侍も通して見よ」と言います。ところが周建は「道路には関所がございます。それがこの口です。うむ。怪しい奴。通ることまかりならぬ」と言って平然としています。

やはり、こいつはただ者ではない、と義満は考え何とか破綻させてやろうと、「周建よ。そこの屏風の絵の虎が毎晩抜け出して往生しているのだ。その虎を縛ってはくれないか?」といいます。

すると周建はまた平気な顔で縄を乞い、その縄を持って屏風の前に立つと、「今から虎を捕らえます。どなたか、屏風の後ろに回って虎を外に追い出して下さい」と叫びました。

これにはさすがの義満も苦笑。この強烈な個性の持ち主を抹消する気も失せて、引き続き監視だけ続けていくことに決めました。

このような一種の機転というのは、禅僧には必須のものです。しばしば「禅は瞬発力である」ともいわれます。中国の臨済と黄檗の壮絶な禅のやりとりなども有名です。

安国寺で学べるだけのことを学んだ周建は経典を読んでもどうしても得られない何かを求めて遊学。11歳の時宝幢寺の清叟、12歳の時建仁寺の慕詰に学んだ後、16歳の時生涯で最大の師ともいうべき西金寺の謙翁に出会います。そして安国寺を出て謙翁に従うことにします。その後の一休の人生はある意味で謙翁の境地に追いつくことであったとも言えるでしょう。

この謙翁が自分の名前宗為の一字を付けて宗純の名前を与えました。宗純は師に付き従って超貧乏な生活の中修行を続けます。この謙翁から宗純は禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきであることを学びました。

しかしその心酔していた謙翁が21歳の時死去。

宗純は途方に暮れ、一時は自殺未遂までしました。しかし、ここで彼は、彼の才能を最も高く認めることになる大徳寺の華叟の門を叩きます。

この華叟のもとでの生活は謙翁のもとでの生活にも増して貧乏かつ厳しいものでした。この華叟のもとで宗純はカラスの声を聞いて大悟。華叟は彼こそ自分の後継者と考えて印可を与えようとしますが、宗純はそれを拒否しました。

彼にとっては印可さえも否定すべきものでした。華叟が彼に一休の名を与えました。一休の印可は本人が受け取らないまま、華叟のもとにずっと保管されることになります。

その後一休は諸国を放浪しながら禅の道を探索しました。これ以降の一休の軌跡はしばらく庶民の中に埋もれてほとんど見えていません。38歳の頃、亡くなる直前の実父・後小松上皇と1度だけ面会したことが記録されているのみです。その間庶民の間で一休の人気は高まり、生き仏とみなされるようになりました。また浄土真宗の中興の祖である蓮如とは深く親交し、互いにその凄さを認め合っていました。

81歳の時、一休は応仁の乱などの戦乱ですっかり荒れ果てた大徳寺の再建の為、その住職に任命されます。庶民に人気のある一休の名前を利用して再建資金を集めようという朝廷の策でした。むろん大徳寺の住職というのはこの当時単に名前だけですので、実際に一休が大徳寺に住むことはなく、相変わらず粗末な小屋で生活を続けました。しかし、このことにより、一休を紹介する人はまず「大徳寺47世住持」の肩書きをつけます。

晩年の一休は旅芸人をしていた森(しん)という盲目の女と知り合い、愛を深めます。森は約10年にわたって一休の世話をしました。この時期、一休はまた漢詩集「狂雲集」をまとめています。そして文明13年、大燈国師の命日に、森や幾人かの弟子に看取られてこの世を去りました。

『朦々淡々として六十年、末期の糞をさらして梵天に捧ぐ。借用申す昨日昨日、返済申す今日今日。借りおきし五つのもの(地水火風空の五大)を四つ(地水火風)返し、本来空に、いまぞもとづく』

さいごの言葉でした。

なお、一休の弟子としては、テレビアニメでもおなじみの蜷川新左衛門、茶道の元祖・村田珠光、などが有名です。


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