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蓮如(1415-1499)

明応8年(1499)3月25日、現在の日本最大の宗教団体・浄土真宗の教団を確立した大宗教家、蓮如が亡くなりました。のちに慧燈大師の諡号をおくられます。

浄土真宗の中核寺院である本願寺はこれほど大きな宗教団体にしては珍しく、開祖親鸞(1173-1262)の子孫が代々法灯を守ってきています。蓮如も親鸞の10世の孫ですが、彼はすんなりと親のあとを次いで本願寺の法主の座についた訳ではありませんでした。彼の父である本願寺7世存如には正妻の子もおり侍女に産ませた子である蓮如にとっては不利でしたが、親類一同を巻き込む壮絶な勢力争いを制して、本願寺第8世の座を手にしました。43歳の時です。

当時の本願寺というのは参拝する人も少ない寂れた寺でした。そのまた部屋住みの身であった蓮如は若い日々を教義の研究に没頭していました。その一方では彼は27歳での最初の結婚以来、生涯で5人の妻に27人の子供を産せています。そして本願寺の法主となると同時にその多数の子供を、男の子は各地の重要拠点に派遣し、女の子は有力寺院などに嫁がせて、一気に全国的に浄土真宗の勢力の拡大を図ります。これは当時の戦国の世において大名達が行っていた手法を踏襲したものと言われます。

こういう強引な勢力拡大政策には当然他派の反発もあり、浄土真宗は多くの派から攻撃されることになりました。しかし、しっかりした教義に裏打ちされ、しかも熱っぽく分かりやすい蓮如の議論には他派の論客もかなわず、比叡山の襲撃によっていったん京都を退いたものの、北陸を本拠地として庶民の支持をえて農民たちの精神的支柱となり、大きく教団を成長させます。そして晩年には再び京都に戻って山科に本願寺を再建。85歳で大往生を遂げるまで精力的な活動を続けました。

蓮如はこのように政治的に優れた宗教指導者であったのと同時に思想的にも高いものを持った宗教家でした。彼は高い宗教的境地に到達したゆえに腐敗した寺を嫌い野に寝起きした一休禅師とも深い交友がありました。俗を捨てて聖になろうとする心自体に民衆を切り捨ててしまう矛盾のあることを知る二人であったが故に、どちらも大衆に人気のある宗教家でした。

蓮如の思想上の最大の功績は親鸞聖人の教えを分かり易く噛み下したことです。現在真宗のお寺や在家信者が朝夕のお勤めに使用している「帰命無量寿如来、南無不可思議光」で始まる正信念仏偈も蓮如がまとめたものです。


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