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推古天皇(554-628)

628年3月7日、推古天皇が亡くなりました。天皇は現在一般に「日本最古の女帝」とされています。

推古帝の前にも、神功皇后が天皇として即位していた可能性があります。現代では推古天皇は第33代天皇と数えているのですが、江戸時代までは神功皇后を天皇の代に含めて推古天皇は第34代天皇ということになっていました。

また、飯豊皇女が実質天皇としての仕事をしていた時期もあります。古事記の古い写本では仁徳天皇(16)から推古天皇(33)までを19天皇と数えており、この数字を説明するためには飯豊皇女を天皇と数えるのが最も自然と考えられます。扶桑略記などは「第24代飯豊天皇」と、はっきり書いています。

しかし明治以降は神功皇后も飯豊皇女も天皇であったとは認めない説が公式には採られています。

さて、推古帝は御名前を初め額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)といい、後に豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)と申し上げました。欽明天皇と蘇我堅塩姫の間の第4子で、用明天皇の同母妹、斉明天皇の祖父の桜井皇子の同母姉になります。

欽明天皇の跡を継いだ敏達天皇(額田部皇女の異母兄,皇后石姫の子)は初め息長真手王(神功皇后の家系の人??)の娘の広姫を皇后にしましたが、亡くなったため、その後任として皇后の地位に登り、二人の皇子(竹田皇子・尾張皇子)と五人の皇女(菟道貝蛸皇女・小墾田皇女・軽守皇女・田眼皇女・桜井弓張皇女)を産みました。そして天皇がなくなるまで9年間、その地位にありました。

敏達天皇が亡くなった時、その後継者として橘豊日大兄皇子(欽明天皇と第1妃の蘇我堅塩姫の間の子,額田部皇女の同母兄)と泥部穴穂部皇子(欽明天皇と第2妃の蘇我小姉君−堅塩姫の妹−の間の子)が上がりました。大勢は豊日皇子だったのですが、穴穂部皇子は起死回生の策として額田部皇后と親しくなろうとし、殯宮(もがりのみや,当時は天皇が亡くなったあとしばらく近親者が遺体を安置して祀ることを行っていた)を訪れ、皇后を犯そうとしました。

ところがそれを異変に気付いた三輪逆(みわのさかし)に妨害されてしまいます。結局後継者は豊日皇子に決まり、即位するのですが(用明天皇)、穴穂部皇子はこのことを恨みに思って、三輪逆の権力が大きくなることを恐れる物部守屋と組んで、三輪逆を殺してしまいました。

この時、三輪逆は自分が額田部皇太后の危機を救ったよしみで皇太后を頼り、皇太后の別荘に逃げ込んで隠れていたのですが、そこにいることを密告する者があり、結局殺されてしまっています。なおこの時、蘇我馬子も、やはり三輪逆の権力拡大は困る共通の立場だからということで皇子や守屋に誘われたのですが、応じず、そのようなことをしてはいけないと皇子を諫めた、と日本書紀には書かれています。このことが後に用明天皇が亡くなったあと、蘇我が穴穂部皇子を殺した理由となっていますが、実際は馬子は自分が手を出すまでもなく三輪逆は殺されるであろうから、わざわざ手を汚すまでもない、と考えて見殺しにしたのではないか、と言う人もいます。

さて、この用明天皇は短期間で病没してしまい、このあと蘇我と物部の戦争を経て、皇位は穴穂部皇子の同母弟の泊瀬部皇子(はつせべのみこ)に受け継がれます(崇峻天皇)。

しかし額田部皇太后はこの時期に自分の娘たちをこの天皇には嫁がせずに、長女の菟道貝蛸皇女を厩戸皇子(聖徳太子)に、次女の小墾田皇女を彦人大兄皇子に嫁がせています。要するに、崇峻天皇の時代はそう長くはもたず、次はこのどちらかが天皇になると見て、まさにツバを付けていたのでしょう。

ところが事態は思わぬ方向に進展してしまいました。

崇峻天皇が蘇我馬子と対立し、これを討とうかといった言葉を発したため、逆襲に遭い、馬子の放った刺客・東漢直駒(やまとのあや・あたいこま)に暗殺されてしまいます。そしてその崇峻天皇の後継者として、額田部皇太后自身が「群臣に」指名されてしまったのです。

この時候補に挙がっていたのが、厩戸皇子・彦人大兄皇子・竹田皇子の3人であったことは想像に難くありません。それがなぜ額田部皇太后に行ってしまったのかは、この時代の歴史の謎のひとつであり、色々なことを言う人がいます。とにかく皇太后も困ったようで何度も辞退していますが、3度目の要請で、とうとう受諾しました。

天皇が即位したのが592年12月8日ですが翌年4月10日には厩戸皇子を皇太子・摂政に任命しています。なぜ竹田皇子(推古天皇の長男)でないのかというのも難しい所なのですが(まだ幼かったのか或いはもう亡くなっていたのか)、とにかくも、かくして推古天皇の時代は天皇と摂政の厩戸皇子、大臣の蘇我馬子の3人によるトロイカ体制で運営されることとなります。

厩戸皇子(聖徳太子)は広い見識を持ち、この国の政治組織確立のためのプランを立て、馬子はその強力な政治能力と軍事動員力で群臣を従わせ、天皇は誰もが尊敬する人物として、群臣の融和の中心となったのでしょう。ある意味ではまさに「国の統合の象徴としての天皇」のはじめであったのかも知れません。

推古天皇には何の権力もなく聖徳太子や馬子のロボットであったという説を唱える人もあるのですが、人間力学的に見て2人の権力者がいる状態というのは力が激突して不安定になるのに対して3人の場合はお互いにうまく調整しあってとても安定します。ですから長期政権が保たれたということは推古天皇もかなりの権力を持っていたと考える方が自然です。日本書紀には帝がきちんと言うべきことは言っていた証拠として、馬子が奈良の葛城県(*1)を自分に譲って欲しいと言った時「自分も蘇我の血を引いた天皇ではあるが、だからといって、あなたを特別扱いはしない」と言って、却下した、というエピソードを伝えています。

この推古天皇の代に遣隋使が送られ、十七条憲法と冠位十二階が制定されました。むろんその発案者が聖徳太子であることはほぼ間違いないでしょう。

長く続いたこの推古天皇の御代も、621年(622年説も)に聖徳太子が亡くなり、626年に蘇我馬子も亡くなって崩れていきます。

聖徳太子が亡くなったあと、天皇は新たに皇太子を任命しなかったため、推古天皇が亡くなった後、聖徳太子の子の山背皇子と、彦人皇子の子の田村皇子との間で後継争いが起きることになります。

天皇は36年の治世を経て628年3月7日、亡くなりました。75歳でした。

--------------(*1)葛城県は現在の奈良県御所市付近であるが、古代に賀茂一族が管理していた土地である。蘇我はこの賀茂と同族であると主張していた。賀茂氏は京都賀茂神社の神官の家柄で、京都を秦一族と一緒に開拓した。修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)や、陰陽道の宗家の一方を興した賀茂忠行はこの賀茂一族の出身。しかしこの時代には秦一族の影に隠れて埋没していた。秦氏の方は秦河勝が聖徳太子のブレーンとして活躍している。


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