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継体天皇(450-534)

継体天皇は同天皇の25年(532)2月7日に亡くなったと日本書紀は書いていますが、私はこれは後述の文書で詳述するように534年ではないかと推定しています。

継体天皇の前に天皇であった武烈天皇という人は日本のネロともいうべき、暴君であったとされます。妊婦の腹を裂いてみたり、人の手の爪を剥いで芋を掘らせたり、と、かなりひどいことをしていたようです。そして、明記はされていませんが、恐らくこれではたまらないと思った人々により暗殺されたものと思われます。

武烈天皇には子供が無く、男の兄弟もいなかったため、次に誰を天皇にするかということが問題になりました。

最初、仲哀天皇の5世の孫である、丹波の国の倭彦王を擁立しようとしますが、倭彦王は大和朝廷の軍が迎えに行くと、自分を討ちに来たのかと思いこんで、逃げてしまいました。

そこで仕方なく次の候補として、応神天皇の5世の孫であり、北陸から東海に掛けて広い範囲に勢力を握っていた越前の男大迹(おとど)王の所へ行きました。男大迹王も大和朝廷の軍には驚きますが、彼は逃げたりはしないだけの肝っ玉がありました。

朝廷を代表して大伴金村が「あなたを次の天皇として擁立したい」といいますが、男大迹王はなかなかうんと言いません。自分が次の天皇の有力候補の一人であることは当然認識していたでしょうが、それ故に、ここでうっかり「よし、やりましょう」などと言えば「さては天皇の地位を狙う不届き者め」と言われて成敗される可能性もあると見てのことでした。

しかし大伴金村としては本気で彼を次の天皇にしたいと思っていますから、男大迹王に親しい人に仲介を頼むなど誠意を尽くして説明、ようやく507年2月4日男大迹王が皇位継承を承諾して、ここに継体天皇が誕生します。

もっとも継体天皇の皇位継承には異論のある豪族たちもいました。そのため彼はすぐに大和に入ることができず最初は河内で即位し、20年目(一書では7年目)にようやく大和に宮を移しています。また彼は即位した当時既に58歳で妻と大きな子供たちもいましたが、既存勢力との融合のため、先々代の天皇仁賢天皇の娘手白髪姫を皇后に迎えます。ここから先、この継体天皇の最初の妻の子供の系統と、手白髪姫の子供の系統は、最初からそう決められていたかのように、みごとに絡み合っています。

      尾張目子媛===継体天皇===手白髪皇女|      |橘仲皇女=====宣化天皇     ||           |石姫皇女========欽明天皇|敏達天皇

(橘仲皇女は手白髪皇女の妹)

なお、継体天皇、安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇、の年代に関する考証は4年前に私なりに研究してffortuneにupした文書があります。これを今回発掘しまして、こちらにupしました。


(2000-02-04)

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