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ヤマトタケル(380頃)

景行天皇40年10月7日、ヤマトタケル尊が伊勢神宮で草薙剣を受け取ったという記事が日本書紀に見られます。

日本武尊(ヤマトタケルのみこと)は景行天皇(垂仁天皇と日葉洲姫の子)の第二皇子で本来は小碓皇子(おうすのみこ)と申し上げました。

双子の兄の大碓皇子が天皇に従順でなかったことから、弟である小碓皇子に注意するよう言いますと、大碓皇子がトイレに入っている所を殺してしまいその荒っぽさが天皇を恐れさせました。そのため、皇子は皇太子の地位にありながら、日本中を遠征して回って、大和朝廷(三輪王朝)の勢力範囲を大いに広げることになりました。

はじめ九州の熊襲(くまそ)が従わないので、これを征伐するよう命じられます。小碓皇子は女装して熊襲の王である川上梟師(かわかみたける)の宴に紛れ込みます。川上梟師は小碓の美しさに目を付け近くへ寄せ、酌をさせいろいろと戯れて、もてあそびます。

そして宴も終わりに近づき、人影もまばらになり、王もこの美女と今夜は楽しまれるのだろうとみんなが思ってそばを離れたころ、突然隠し持っていた剣で川上梟師の胸を刺して殺害しました。

その時初めて小碓皇子がその名を名乗ると、川上梟師はその大胆さに感心し、以後は「日本武皇子(ヤマトタケルのみこ)」と名乗られるようと言い残して絶命しました。(つまり今までは自分がこの国で最も強いと考え「たける」を名乗っていたが、その自分を倒したのだから「たける」の名を譲る、と言ったわけです)

後に、出雲の勢力が従わなかった時、また皇子が派遣されます。皇子は初め出雲の首長・出雲建と仲良くなる振りをして、頃合いを見て山中に誘い出します。そして肥の川で沐浴をしている最中にこっそり彼の刀をニセモノとすり替えてしまいました。そして「太刀合わせをしましょう」と言って刀を抜くのですが出雲建の剣はニセモノ。焦っている間に皇子に斬り殺されてしまいました。

小碓皇子は「日本武尊」などという勇ましい名前に似合わず、おそらくは細身の、小柄な人だったのでしょう。腕力もそうなかったのかも知れない。だからこそ女装なども自然にできたのでしょうが、自分に足りない腕力を知恵で補って、敵対勢力を倒して行ったものと思われます。

そしてこの年、小碓皇子は東国の征伐を命じられます。西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたと思いますが、東国ということになると崇神天皇の御代に四道将軍の大彦命と武渟川別の征伐があったくらい。大和朝廷の力がそんなに及んでいる訳ではない。苦戦が予想されました。

そこで10月7日、皇子は伊勢に立ち寄りました。20〜30年前から、その地では皇子の叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)の祭祀を行っておられました。皇子はおそらくこの遠征が自分の最後の仕事になるであろうことを予想し、叔母に挨拶に行ったのでしょうが、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授け、心して行くよう注意しました。

この剣は昔素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八俣大蛇(やまたのおろち)を倒した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ににぎのみこと)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせられたものという由緒ある宝です。倭姫はこの征伐にはまさに神のご加護が必要であることを感じ取ったのでしょう。

皇子が駿河の国(静岡県東部)まで行かれた時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付けるものがありました。皇子はこの時、この剣で周りの草を切り払い、火による害を防ぎました。この故事により、この剣はその後、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになります。なおこの場所もこの故事により焼津と呼ばれるようになりました。

相模(神奈川県)からは海路を通って上総(千葉県)に渡りました。武蔵国(東京都)あたりに強力な勢力があって、それをいったん避けたのでしょうか。この時、途中で海が荒れ、一行を乗せた船が今にも沈没しそうになったことがありました。

その時、この旅に同行していた皇子の妃の弟橘媛が「これは海神のしわざでしょう。私が皇子の身代わりに海神様の所へ参ります」と言って、海に飛び込んでしまいました。すると暴風雨はすぐに止みました。

皇子の一行は弟橘媛のお陰で無事上総に到着することができ、そこから常陸(茨城県)・甲斐(山梨県)へと進軍しました。そしてやがて碓氷峠にさしかかった時、皇子は東南の方角をかえりみて、海の底へ消えてしまった妻の弟橘媛のことを想い「ああつまや」と声に出して泣かれました。そのため、この地方を「あづま」と言うようになったとのことです。

皇子はここで吉備武彦に軍の一部を分け与え、越国(北陸)の方に回るよう命じて、自らは信濃(長野県)へと進みます。

この信濃越えは皇子たち一行を苦しめました。深い霧が出てきて、しばしば方向を見失うのです。そしてやがてこの山の神が白い鹿の姿をとって皇子たちの前に現れました。皇子はそれとは知らずにその鹿に蒜(ニンニクの類)を投げつけますと、鹿は死んでしまいました。しかし、それと同時に一行はたちまち道に迷ってしまいました。

ところがそこに今度は白い犬が現れました。皇子たちが導かれるようにそのあとに従いますと、皇子たち一行は美濃国(岐阜県)に出ることができました。その山では今まで多くの人が突然病気になったりして苦しんでいたのですが、それより後、蒜を噛んで山に登るとそのような害に遭うことがなくなったそうです。

さて、美濃では皇子たちは越国を回ってきた吉備武彦の軍と合流します。そして一行は尾張国で休憩を取りますが、ここで皇子は尾張氏の娘の宮簀媛を娶ることになります。

死を覚悟で出発した東国遠征。しかし尾張までたどりつき、大和国は目前。皇子にわずかな気のゆるみが出たのかも知れません。

皇子は伊吹山によくない神がいると聞き、それを倒そうとおっしゃって出かけられるのですが、この時、今までずっと身から離さなかった草薙剣を初めて外して、宮簀媛に託して山に登って行かれました。

伊吹山にやってきた皇子を見て山の神は蛇に変じて皇子の道をふさぎますが皇子はそれが山の神とは知らず、その蛇を踏みつけて山の奥へと入っていきました。すると怒った神は雹を降らせ、霧を出して皇子を道に迷わせました。

皇子は命からがら山から下りて、そのまま宮簀媛の家に戻らず、伊勢を目指しました。しかし皇子の命数はもう尽きようとしていました。鈴鹿の能褒野まで来た時、皇子はもうこれまでと判断。「東国の遠征は果たしましたが、自分は生きて戻れそうにありません」という天皇への遺言を吉備武彦に託し、その地で亡くなられました。

皇子の霊魂は亡くなったあと白鳥と化し、河内国に至ったといわれます。そして皇子のお墓は亡くなられた能褒野と、途中その白鳥が立ち寄った大和の御所と河内国の3ヶ所につくられることになりました。

また皇子が宮簀媛に託した草薙剣は結局尾張氏がそのままお守りすることとなり、その祭祀のために建てられたのが現在の熱田神宮です。

なお、このヤマトタケル尊の年代ですが、日本書紀の1年をそのまま現在の1年に合わせ付けるとAD110年になってしまいますが、貝田禎造の推算ではこの時期の1年は現在の3ヶ月に相当するとしてAD367年という計算になります。安本美典の推算ではだいたい390年頃の計算になります。私はだいたい380年前後と推算しています。まぁだいたい4世紀半ばから後半にかけての出来事と考えればよいでしょう。


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