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福田赳夫(1905-1995)

福田康夫首相の父で第67代首相の福田赳夫は明治38年(1905年)1月14日、群馬県金古町(現高崎市)に生まれました。古くからの名主の家柄で、祖父・父・兄が金古町の町長を務めています。

東京帝国大学法学部を卒業後、1929年に大蔵省に入り、3年半のロンドン勤務を経て、銀行局や主計局などの仕事をします。ところが戦後の1948年、主計局局長をしていた時、昭和電工疑獄事件に絡んで逮捕される目に遭います。

この事件は当時、昭和電工で社長の座を狙っていた日野原節三が自ら社長に就任するとともに当時の社長の森曉とその一派を追放すべく、政界・官界・GHQに多数の贈賄を行ったとして摘発されたもので、GHQのケーディス大佐が解任され、芦田均内閣が崩壊し、福田などの官僚にも逮捕者が多数出ました。

裁判はこのあと10年続きますが、結果的にはほとんどの被告が無罪になりました。今日では、この事件は日野原の野望に、GHQや政界の中での権力闘争が絡んだ、謀略事件だったのではないかという見方が強くなっています。福田はまさに巻き込まれてしまったのでしょう。

しかし福田はこの逮捕をきっかけに大蔵省を辞します。そして政界に転じることとし、1952年群馬三区から衆議院選挙に立候補して当選しました。

1958年には自民党の政調会長、翌年には幹事長を務め、1959年6月には岸信介内閣の農林大臣として初入閣しました。この時54歳。ほんとに遅咲きの政治家です。

次の池田内閣ではふたたび政調会長になりますが、池田の政策を批判。この時、福田と同調した議員のグループが後の福田派のルーツです。

池田が退陣した後は岸の弟の佐藤栄作が総理大臣に就任しますが、福田は佐藤にひじょうに可愛がられ、大蔵大臣や外務大臣を歴任しました。

佐藤退陣後、総理大臣候補として名乗りを挙げるものの田中角栄に惨敗。その田中が金脈疑惑で退陣に追い込まれると、椎名裁定で後継総理は三木に決定。また涙を呑みます。しかし三木の政策が自民党内部に非常に不評であったため「三木降ろし」の動きが出、ここで福田はライバルの大平正芳に「2年たったら首相の座を譲る」という密約をして、やっと総理大臣に就任することができました。

何度も総裁の座に挑戦しては失敗したというので、当時「受験生が福田氏の表札をお守りにと盗んだら、何年も浪人する羽目になった」などという冗談がいわれたほどでした。

なお三木の妻は昭和電工事件で社長の座を追われた森曉の妹です。その三木首相は国民に人気が高かったため、それを無理矢理退陣させて総理の座に就いた福田は、スタート時点から国民からの不人気で迎えられることになりました。

首相就任時、福田は71歳でした。(奇しくも福田康夫も71歳で首相になった)高齢での首相就任に対する不安の声に福田は「僕は明治38歳だから若い」と応じています。福田赳夫という人は実に多くの「迷言」を残した人です。「昭和元禄」や「狂乱物価」ということばも彼が定着させたものといわれます。

彼の首相在任は約2年間ですが、その間の功績としては、中国の登小平を日本に迎え1978年8月「日中平和友好条約」の調印を実現したことが挙げられます。日中国交回復は前任の田中角栄が電撃的に実現したものではありましたが、いざ条約を結ぶという段階で様々な問題で揉めに揉めました。

本来は福田はどちらかというと台湾派であったようですが「全方位平和外交」をうたい、中国に対してもお互いに内政干渉せずにおとなの付き合いをしようという呼びかけをし、この難しい条約交渉を妥結させることに成功しました。彼は思えばそれまで対米追随外交を続けていた日本の政権の流れを変えて、「アジア」というステージを日本国民に意識させた最初の首相であったかも知れません。

彼の在任中いちばん困った事件が、日本赤軍による1977年9月のダッカでの日航機ハイジャック事件でした。

犯人側が日本国内に拘束されている赤軍メンバーのみならず、赤軍とは無関係の犯罪者数人を引き渡すよう要求し、あわせて身代金の支払いまで要求しました。

日本国内は強攻策と穏便策で世論がまっぷたつに割れ、議論が高じて喧嘩になり相手を死なせるような事件まで起きる中、福田は犯人の要求に屈する選択をします。この時彼は「人命は地球より重い」という、戦後間もない頃にあった裁判の判決の中で引用されたことばを引用し理解を求めました。

しかしこの福田の決定に対しては、国内のみならず国際的には激しい非難が起きました。

このような措置をとればその場では人命は失われないかも知れません。しかしテロリストに人員と金を供給することは、その結果更にテロを起こすことになり、より多くの人命が失われることになります。

なお「人命は地球より重い」は元々は明治時代の小説に出てくることばなのだそうですが、戦後間もない頃におこなわれた重罪犯の裁判では「しかし」と続いて死刑が宣告されています。福田はこの同じ言葉を引用しながら「超法規的措置」として、犯罪者の開放を行いました。

この「超法規的措置」は法学的に見れば刑法の定める緊急避難に相当するものであり「超法規」とは呼ばれるものの、法律の枠内の措置ではあります。しかし、このようなことが行われるのは法治国家の根幹を揺るがすものであり、時の法務大臣・福田一は首相の方針を批判。首相は法務大臣を更迭して、この措置を強行しました。

なお、福田一は同じ福田姓ですが、福田赳夫との姻戚関係はありません。武骨の政治家で、引退後、後援会が娘婿を後継者として擁立しようとしたところ「政治家は世襲すべきものではない」と言ってそれを拒否、いっさい応援しなかったというエピソードもあります。

なお、福田首相はこのあまりにも軟弱な措置を取りながら、一方では今後はこのような選択をしなくても済むようにするための秘密の命令を下していました。

それは現在のSAT(特殊急襲部隊)のルーツにあたる組織の創設です。

結局福田が首相をしていた当時、このような場合に強行突入して犯人を殺害あるいは拘束して、人質を救出するような能力を持つ部隊が日本には存在していなかったのです。

戦後30年以上にわたり平和な時代を過ごしてきて油断があったのでしょう。

特殊部隊の構想は実はこの5年ほど前から警察内部で練られていたものでありダッカ事件の時にも既に部隊自体は存在していたのですが、このような組織的なテロに応じるまでの行動力はありませんでした。

ダッカ事件の1ヶ月後にはドイツでもハイジャク事件がありましたが、ドイツは特殊部隊GSG-9を突入させ、人質全員を無事解放しています。

このあまりに対照的なふたつの事件で日本政府は猛省する羽目になり、東京と大阪に高い能力を持つ部隊を創設することになりました。そしてドイツのそのGSG-9やイギリスのSASなどに派遣して訓練を受けさせました。その成果は2年後の1979年、三菱銀行人質事件で発揮されることとなります。

さて、福田が「三木おろし」で総理に就任した時、国民にとってあまりにも不明瞭な工作がおこなわれたという批判があったため、自民党では全国の自民党党員党友による総裁の選挙が行われる、画期的なシステムを作りました。

このシステムは党員党友による予備選挙をおこなった後で、国会議員による投票で総裁を決定するという方式になっています。しかしこのシステムは当初から、おかしいと批判されており、福田自身も、予備選挙で一位になった候補が総裁になるべきだと主張していました。

そして予備選挙の結果は、おおかたの予想に反して大平正芳が1位でした。

福田は自分で予備選挙の結果をそのまま生かすべきと主張していたことがそのまま自分に返ってきて、国会議員による本投票の前に候補を辞退。結果的に総理の座からも退陣することになりました。

なお、この全党員党友による予備選挙はその後、鈴木総裁退陣後に1度行われたのみ(中曽根康弘が勝利)で、全く行われておらず、完全に形骸化した制度となっています。

総理退陣後の福田は「昭和の黄門」などと自称し、政界に様々な影響力を行使しました。また国際的には世界各国の政界トップの経験者が集まり各々が持つ影響力を利用して平和のための活動をする会議を創設。これは現在も「Inter Action Council」の名前で活動が継続されています。

1995年7月5日死去。享年90歳。


(2008-01-13)

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