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市川右太衛門(1907-1999)

北大路欣也の父で昭和の偉大な映画スターのひとり、市川右太衛門は1907年2月25日に香川県丸亀市で生まれました。本名浅井善之助。

父は鉄工所経営でしたが芸事が好きであったため5歳から日本舞踊を習い始め、小学校卒業とともに市川右團次(2代目,1881-1936,現市川右之助の祖父)に弟子入り。市川右一の名前をもらって活躍。その芸は高く評価され、門閥外の出身ではあっても大役を任され、武蔵坊弁慶なども演じました。

1925年に牧野省三が歌舞伎界から若手スターを獲得したいとして彼に注目。熱心に口説いて映画界への転向となります。この時、歌舞伎時代の名前の右から1文字取って「市川右太衛門」という名前を牧野が考案しました。

この名前については、あとから発音が中村歌右衛門(5代,1866-1940)と同じであることに気付き大いに恐縮したとのこと。当の中村歌右衛門も不快感を表明したことがあったそうです。

映画界での最初の作品は1925年「黒髪地獄」。その後立て続けに主演作品が制作され、たちまち人気スターとなりました。しかし1927年、コンビを組んできた沼田紅緑監督が死去。それを機にマキノプロを辞して独立し、市川右太衛門プロダクションを設立しました。そして1930年に「旗本退屈男」の第一作を撮影しています。

この旗本退屈男は市川がひじょうに気に入った作品で、その後トーキー時代になっても、また映画会社が松竹太奏・新興京都・東横(のち東映)と変わっても撮り続けられ、彼の代表作となります。映画だけでも全部で30本あり、特に1950年から1963年の14年間の東映時代には21本も撮影されています。また映画を制作しなくなってからも長らく舞台で旗本退屈男を演じました。また1973年にはテレビドラマ版(NET)も制作されています。私がリアルタイムで見て好きになったのはこのテレビ版です。このシリーズには北大路欣也も出演していました。

「天下御免の向こう傷。直参早乙女主水之介。人呼んで旗本退屈男、わっはっは」という名台詞も市川は非常に気に入っていて、サインを求められた時に機嫌がよいとその場で披露してくれることもあったとのことです。

時は元禄。旗本早乙女主水之介(さおとめ・もんどのすけ)は諸羽流青眼崩しの使い手で、五代将軍綱吉の側近でしたが、ある時将軍の怒りに触れ、杯を投げつけられお役御免を言い渡されます。しかし後に綱吉は自分の誤りを認め、その時に受けた額の三日月形の傷をして天下御免の身分とされました。そのため彼は江戸城にも着流し姿で登れるようになりました。

後に、この早乙女主水之介役を息子の北大路欣也が演じていますが(1988-1994,2001)、息子の演技に充分満足しながらも「あれは俺の役だからな」と言ったと伝えられています。なお、北大路版では時代設定および傷を受けた理由が変更になっています。

その北大路欣也に関して、右太衛門は自分が小学校だけ出て演劇の世界に入ったからということで大学進学を強く勧めましたが、1967年早稲田大学を卒業する際、本人は仕事のため卒業式に出席できませんでした。するとこの式に右太衛門が代理出席。息子の名前が呼ばれると大きな声で返事をして、拍手が湧き上がったとのことです。

なお「北大路」というのは右太衛門の邸宅が以前あった場所(京都)の名前で、彼自身「北大路の御大」と呼ばれていました。

市川右太衛門は旗本退屈男以外では、大岡越前、清水次郎長、近藤勇、水戸黄門などを演じています。若い頃から実は大石内蔵助を演じたかったそうなのですが、それは1956年に実現しました。

1999年9月16日11:33、老衰のため千葉県館山市にて死去。享年92歳。


(2007-02-25)

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