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伊藤深水(1898-1972)

『最後の浮世絵画家』と呼ぶ人もある日本画家・伊藤深水(いとうしんすい,本名一,はじめ)は明治31年(1898)2月4日、東京深川に生まれました。女優の朝丘雪路さんのお父さんです。

伊藤の生母や実父についてはよく分かっていません。赤ん坊の内に伊藤半三郎氏の元に引き取られ養子とされますが4歳の時にこの養父が失業した後家庭が崩壊し、半三郎氏の妻宅、愛人宅、そして最後は姉の家と転々とします。9歳の時に家計を助けるため小学校を中退して看板屋に奉公に出、やがて東京印刷株式会社に移りますが、この頃画家になりたいという将来の夢を描くようになり、そのことを話すと本社の図案部に異動させてくれました。1908年、10歳の時です。

図案部で伊藤は日本画家の結城素明に絵の初歩を学びますが、みるみる内に上達しました。その才能に目を留めた当時の図案部長は日本画家の水野年方の弟子であった為、彼はこの少年を1911年、同門の画家・鏑木清方に紹介、弟子入りさせました。伊藤は日本画家として幸運なスタートを切ることになります。この水野・鏑木が歌川派の浮世絵の流れを汲んでいます。系統図は次のようになります。

  歌川国芳―菊池容斎―月岡芳年―水野年方―鏑木清方―伊藤深水

鏑木は伊藤に画家といえども勉強はしなければいけないといい、彼に夜学に通うことを命じます。そこで彼は、昼間は東京印刷で仕事をして、会社を引けてから夜学に通い、その間をぬって鏑木清方の所に行って絵の指導を受け、更に帰宅してから深夜まで自分なりに絵の勉強をするという、すさまじい生活をすることになります。その甲斐あって1912年には巽画会展に初入選。翌年・翌々年の同展では褒状一等を受けます。1914年に東京印刷退社。

伊藤は日本画の分野で活躍し出した一方、1916年、渡辺庄三郎の呼びかけで「新版画」運動に参加します。これは絵師・彫師・摺師という分業体制による版画を作ろうという、浮世絵の復興運動でした。また一方では彼は雑誌の挿し絵なども多く手がけています。

1919年21歳で好子と結婚、雑司ヶ谷に転居。1920年・1921年に男の子が生まれました。1922年には大井町に転居。この大井町時代に自宅に画塾を設立、100人ほどの弟子を抱えることになります。たちまち500坪の手狭になって池上の1000坪の家に転居。この時代に弟子は更に500人にまで膨れあがります。

伊藤は人物画、特に美人画の人気が高かったのですが、風景画や花鳥絵などにも高い技法を持っていました。しかしそれでも来る注文は美人画ばかり。

そこで彼は1940年代になると歌舞伎などに取材した古い題材の絵を自主的に描いたりしてバランスを取るようになりました。その流れは戦後にも更に続いていきます。彼の言うには、現代の人物画ではその時代の風俗に合わせた服飾で絵を描かなければならないが、時代物の場合は自分の自由な発想で装飾品を描き込むことができるのが良いということでした。

彼は1958〜1964年には精力的に海外を周り、また新たな刺激を得ています。そしてヨーロッパ、アメリカ、ペルー、ブラジル、インドネシアなどの風景をモチーフにした作品を多数制作。しかしその後はまた人物画に回帰し、多くの美人画を世に出しました。

1972年3月、師の鏑木清方が亡くなると、その後を追うように5月8日16:50、癌のため死去。享年74歳。


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