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加藤正夫(1947-2004)

年末に急逝した本因坊剣正こと加藤正夫(前・日本棋院理事長)は1947年3月15日に福岡市で生まれました。

本因坊というのは信長・秀吉・家康の3代の囲碁師範を務めた日海(算砂とも,1559-1623)が、所属していた京都寂光寺の坊が本因坊といったため、以後、彼の後を継ぐ最も優秀な弟子が代々「本因坊家」の養子となって「本因坊家第○世」を名乗るようになりました。その中でも特に著名なのが第四世の本因坊道策と14世の跡目で本来は15世になるはずの所を若死にしてしまった本因坊秀策です。

その後本因坊21世の秀哉がこの名跡を日本棋院に委譲したため現在では本因坊戦というのがおこなわれており勝者が本因坊を名乗ることになっています。その為名人戦・棋聖戦などの他の棋戦と違い、この棋戦の優勝者は「本因坊○○」という特殊な名前を名乗ることが許されています。加藤正夫は1977〜1979年の3年間と2002年に本因坊となり、本因坊剣正を名乗っていたのです。

(ほかに石田芳夫は本因坊秀芳、坂田栄男は本因坊栄寿を名乗っているが、趙治勲や加藤の長年のライバル武宮正樹らはこの権利を行使していない)

加藤は父が碁会所を開いていたこともあり小学生の頃から碁に親しみ、その碁会所で多くの大人たちと打ちながら腕をあげ、小学6年の時にはアマ四段(当時のアマの最高位)に到達してしまいます。

小学校を卒業すると加田克司九段の紹介で昭和前半の最高棋士で身体を壊して引退した後は後進の指導に生涯を捧げた木谷實の道場に入門。ここで15年間鍛えられているうちに、木谷三羽烏の一人に数えられるまでになりました(後2人は石田芳夫と武宮正樹)。

17歳でプロになり連勝に連勝を続けて毎年段位をあげ20歳で最高棋士のリーグである本因坊リーグに入ります。1976年から1977年にかけて碁聖・十段・本因坊を次々と獲得。1979年には更に王座と天元まで取って五冠に輝きました。

本因坊と並ぶビッグタイトル名人も1986-1987年に取得していますが、棋聖位だけは木谷一門の後輩である小林光一に3回負けて取得はなりませんでした。

本因坊通算4期、名人2期、十段7期、天元4期、王座11期、碁聖3期。

戦後で5本の指に入る最強棋士のひとりです。門下には「ヒカルの碁」の監修で名を広めた梅沢由香里五段、先日女流名人になった小山栄美五段、などがいます。

その加藤の全盛期はなんといっても1970年代後半から1980年代に掛けてですが、もうピークを過ぎたと誰もが思っていた2002年に本因坊に復位して、日本中の囲碁ファンを驚かせました。彼の底力も凄まじいものです。

おりしも日本は近年囲碁では中国・韓国の追い上げで劣勢に立たされており、又日本棋院自体が長年の甘い経営で作ってしまった多額の債務問題などから、棋院の改革も叫ばれていました。その声に推されて2004年、現役棋士、しかも最高位の棋士が日本棋院理事長に就任するという異例の人事が行われました。

これはサッカーでいえば中山雅史あたりがいきなりJFA会長に就任するようなもの、野球でいえば松井秀喜あたりがいきなりプロ野球コミッショナーになるようなものです。それだけ当時の日本囲碁界の危機感は強かったのです。

しかし現役棋士を勤めながらのこの激務はさすがに彼の寿命を縮めてしまいました。理事長就任からわずか半年の昨年12月30日12:33 脳梗塞のため急死。まさに殉職といえます。享年57歳。現在日本棋院はその意志を継ぐべく、工藤紀夫九段が理事長代行として改革の継続に努力しています。


(2005-03-15)

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