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野村胡堂(1882-1963)

「銭形平次」の原作者として知られる野村胡堂(本名長一)は明治15年(1882)10月15日、岩手県大巻村(現紫波町)に生まれました。読書好きの子で小さい頃から自宅の本を読みあさっていました。盛岡中学に進み同級生の金田一京介と知り合い、以後死ぬまで交友を続けます。結局金田一京助は野村が亡くなった時の葬儀委員長を務めています。

やがて東京帝大に進みますが明治43年に父が亡くなり学費が払えなくなって除籍処分にされます。明治45年に報知新聞に入社、政治部で活動しました。

大正3年の同新聞のコラムに初めて「胡堂」のペンネームを使用。もうひとつのペンネームである「あらえびす」は大正13年から。こちらのペンネームは同新聞に音楽漫談「ユモレスク」を書くのに使用しています。彼の音楽収集は有名で、彼の7000枚のレコードコレクションは現在も岩手県紫波町の「野村胡堂あらえびす記念館」に保管されています。

「銭形平次」の連載が始まったのは昭和6年4月。「文芸春秋オール読物」に載ったのが初連載で以後27年間、合計333編もの大長期連載を果たしました。(特別編などを加えると400編近くあるらしい)一人の人物を主人公にした小説としては世界最長ではないかという説もあるようです。その間昭和24年には「捕物作家クラブ」を結成して初代会長に就任しています。

これは実は昭和22年に探偵作家クラブが結成された時、彼ら江戸時代を舞台にした犯罪捜査小説の作家の加入に異論を唱える作家がおり、そのため江戸川乱歩や横溝正史らが調整を行って、別働隊的に結成されたものです。副会長には数々の時代小説を書いている土師清二と「若さま侍捕物帖」の城昌幸が就任しています。(昭和39年解散)

この分野では何と言っても岡本綺堂(1872-1939)の「半七捕物帳」(1916-1937)が先駆け的な役割を果たしています。これは実在の目明かし・神田の半七親分(1823生)やその知人たちから聞いた話を元にして書かれたものです。姉妹編に「三浦老人昔話」があります。(但し半七親分の実在に異議を唱える人もいる)

半七は神田三河町に住み、10人ほどの子分がいたのだそうですが、野村胡堂の平次は神田明神下お台所町で、子分の八五郎(ガラッ八)が「親分てぇへんだぁ」の声で持ち込む事件を解決していくという筋立てになっています。投げ銭で賊の動きを止める得意技が「銭形」の異名を生みました。

野村がこのシリーズの執筆を停止したのは昭和32年「オール読物」8月号でした。目の病気のためで、昭和33年菊池寛賞受賞、昭和35年紫綬褒章受賞。そして昭和38年4月14日肺炎により死去しました。享年76歳。葬儀は音楽葬で営まれました。

銭形平次の映画で最初に作られたのはおそらく昭和6年の松竹の作品。この時の平次役は堀正夫です。ついで平次ファンには良く知られているのが嵐寛寿郎が主演したもので昭和8〜9年に3本撮られています。有名な長谷川一夫の平次は昭和24〜36年の長期にわたって撮影されており、野村胡堂にとっては自分の作品を演じているのは長谷川一夫というイメージであったかも知れません。なお長谷川平次のガラッ八役は初期には花菱アチャコ、後には三木のり平・ハナ肇・船越英二らが演じています。

この長谷川平次のイメージからがらりと変わったのが昭和41年から始まるフジテレビ系のテレビドラマシリーズです。この作品では平次役に名女形で、名作「新吾十番勝負」でその美男子ぶりが多くの女性ファンの心を奪っていた、大川橋蔵を起用します。

大川平次以前にもTBSが若山富三郎を使って2年間放映したシリーズがあるのですが(その後安井昌二でもう1年やっている)、やはり橋蔵の平次はテレビドラマ史上に、東野英二郎の水戸黄門と並ぶ大きな足跡を残しています。

ガラッ八は初期は佐々十郎ですが、すぐに林家珍平に交替しており、こちらを記憶している方が多いでしょう。お静は初期には八千草薫、後に鈴木紀子、そして最も記憶されている香山美子、三輪の万七が遠藤太津朗、その子分が東八郎(Take2の東貴博の父と説明した方がいいのだろうか)。この付近が不動のレギュラー陣でした。そして主題歌は舟木一夫。昭和38年の「高校三年生」のヒットの余香が残っている時代で、ルックスの良さもあり、今で言えば氷川きよしクラスの人気があったのではないかと思います。彼は主題歌を歌う一方で、半年に1度くらいはドラマにもゲスト出演するのがお約束になっていました。

この放送は結局1966年5月4日から1984年4月4日まで実に18年間、888話も放送されました。(フジテレビでは後に北大路欣也主演で7年間再度放映している。リバイバルでこれだけ長期放映できたのは凄い。他に日本テレビが風間杜夫主演で半年間放映したこともある)

なお大川平次シリーズで番組のエンディングの所で「寛永通宝」という巨大な銭形が出てくるところがありますが、あれは別にこの番組のために作られたセットではありません。

四国の八十八カ所・観音寺市の観音寺に江戸時代からあるもので、一説では寛永10年に丸亀藩主生駒高俊公が藩内の巡視に訪れた時に地元の人々が歓迎のため一夜で築きあげたもの(寛永13年に作られたという説もある)といわれています。全周340m、南北90m、東西122m、高さ2m。本当に巨大です。(実際問題として一夜で作るのは無理だと思いますが...)


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