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昭和天皇(1901-1989)

明治34年(1901年)4月29日午後10時10分、東京青山御所で時の皇太子嘉仁親王と節子妃殿下の間に長男の皇子が誕生しました。迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)親王と名付けられた皇子は激動の時代を生き抜くことになります。

習慣によって生後3ヶ月で母から離され川村純義伯爵家で育てられ明治41年に学習院初等科入学。この時の院長は後で明治天皇に殉死することになる乃木希典です。

明治45年7月30日、明治天皇の崩御・大正天皇践祚に伴い11歳で皇太子になりますが大正天皇は病弱で公務にしばしば支障をきたしていました。そこで自然と天皇の名代として活動することになり、大正10年11月25日、正式に摂政の地位に就くことになります。20歳の時でした。これに先だって半年間にわたってヨーロッパ各地を外遊しています。

大正11年9月28日には島津忠義公爵の孫娘久邇宮良子(ながこ)女王と結婚。この時、山県有朋が婚約破棄を迫り怪文書が乱れ飛ぶ「宮中某重大事件」が起こりますが、親王は「良子でなければ駄目だ」と明言、宮内庁も東宮妃は変更しないという声明を発表してケリが付くという一幕もありました。なお当の山県はこの結婚式を見る前、同年2月に死去しています。

翌大正12年は大変な年でした。9月1日に関東大震災が起き、ちょうど内閣が交替して新総理になったばかりの山本権兵衛が赤坂離宮の芝生の上で組閣作業を行いました。12月27日にはアナーキストの難波大介が裕仁親王を狙撃(虎ノ門事件)。幸い弾はそれました。東宮の運の強さを示しています。

この大正12年、東宮は女官制度を大改革しました。明治天皇には何人かの側室がおり、大正天皇も一条美子皇后ではなく柳原愛子権典侍の腹でした。大正天皇は九条節子皇后以外に妃を取りませんでしたが、依然として宮中には大量の妃予備軍の独身女性で構成される奥が存在していました。東宮はこれを全て廃止して女官の資格も未亡人や既婚女性も可とし、しかも住み込みが原則であったのを通勤も可としました。そのため東宮の宮の女官は半数ほどが中年の既婚女性や未亡人で構成されました。さらに御所言葉も廃止して宮中で普通の言葉が使用されるようになりました。この制度は大正天皇の宮の方では旧制度が維持されておりましたので異動になった女官が戸惑うケースもあったそうです。

やがて大正15年(1926年)12月25日大正天皇崩御。親王は践祚して第124代の天皇になりました。もう年末でしたので巷には「大正16年」のカレンダーが配られ済みの時でした。昭和3年11月10日に即位の大礼、14日に大嘗祭が行われています。

天皇は就任早々軍部の独走に悩まされます。昭和3年6月4日張作霖爆殺(満州某重大事件)。昭和6年3月20日陸軍クーデター計画(3月事件)に続き9月18日満州事変。昭和7年515事件、昭和11年226事件。昭和12年7月7日芦溝橋事件。昭和14年5月11日ノモンハン事件。そして昭和16年12月8日真珠湾奇襲攻撃により時局は太平洋戦争に突入してしまいます。

天皇は法制上直接政治的な発言はできない立場ながら何とかしたいとはし、張作霖事件では田中首相を叱咤して辞任に追い込み、226事件でも当局の対応を批判して事件を起こした部隊を反乱軍といち早く認定したりしています。が、しばしば、軍部に逆らうなら暗殺して戦争積極論者の秩父宮に代えるぞという脅迫的圧力も伝わってくる中抵抗できない場面も多く、なすになせないまま戦況はどんどん悪化。各地の都市が空襲にやられ、2個の原爆まで落とされました。その8月10日午前2時30分。ポツダム宣言を受け入れるかどうかで結論の出ない御前会議は天皇の判断を仰ぎます。もとより天皇の意志は明白でした。昭和20年8月15日正午全国に玉音放送が流れ国民に敗戦が知らされました。

昭和20年8月30日14時05分厚木に降り立ったマッカーサー元帥は日本の非軍事化と民主化に着手します。そのマッカーサーを天皇が9月27日に訪問。天皇がマッカーサーを訪問したということが勝者と敗者を明確に物語っていました。天皇はこの会見でこの戦争責任が自分にあることを表明しますがマッカーサーは逆に天皇を日本再建の軸にする構想を立てあえて戦争責任を問わないことにします。これによって天皇は軍部が作った虚像からマッカーサーの虚像に乗り換えることを要求されますが、天皇はその手に踊らされることなく進んで国民の統合の象徴としての行動を取り始めました。

(実はこのマッカーサー訪問の裏には後に首相になった吉田茂の働きがあります。吉田がいなければマッカーサーはわざわざ天皇に会おうとはせず、戦争の第一責任者として告発していたかも知れません。これについては吉田茂の項を参照してください)

昭和21年1月人間宣言。その年南朝の後継者と名乗る「熊沢天皇」が出現したりして皇室の権威がゆらぐ中(熊沢天皇を最初に報じたのは米軍機関紙だった)その2月から昭和26年にかけて戦争の傷跡の残る全国を行脚して国民を励ます旅を始めます(北海道のみ昭和29年。沖縄は結局行けなかった)。天皇は予想に反して国民たちから熱い歓迎を受けましたし、国民たちも大いに力付けられました。その間極東軍事裁判は進行し東条英機らのA級戦犯7名が巣鴨で処刑されます。昭和26年マッカーサーは朝鮮戦争の進め方に関してトルーマン大統領と対立して解任。GHQは天皇に羽田まで見送りに来て欲しいと要請しますが宮内庁は拒否。国民の新たな形での支持を受けた天皇としての再出発が始まりつつありました。

天皇はこの巡幸以外にも昭和21年から国体(国民体育大会)をスタートさせてそれに出席。23年からは正月の一般参賀開始、25年には全国植樹祭がスタート。28年からは皇居での園遊会も再開させて「開かれた皇室」としての新しいイメージ作りに尽力します。しかしそれは明治維新以来の政治家や軍人等に利用されるだけの天皇から、聖徳太子の時代以来の日本の精神の中心としての天皇という、天皇本来の姿に復帰させるものともいえます。

昭和27年に明仁親王の立太子礼。翌年にはその皇太子がエリザベス女王の戴冠式に出席のため渡英。そして昭和34年4月10日の皇太子ご成婚、翌年2月23日の浩宮徳仁親王誕生と慶事が続く中、天皇は完全に日本の精神的中核としての地位を回復していました。

昭和40年代は三女和子の夫がバーのマダムとガス中毒死するというスキャンダル、孫娘東久邇文子の離婚、奥崎謙三のパチンコ玉狙撃事件(山崎天皇を撃て)、葉山ご用邸の放火焼失など暗い事件も相次ぎました。また昭和46年にはヨーロッパ各国を訪問しますが各地で第二次世界大戦戦没者遺族などから冷たい視線を浴びせられました。

そんな中昭和46年には初の曾孫・東久邇征彦がロンドンで生まれ、昭和49年には金婚式の祝賀があり、昭和50年にはエリザベス女王夫妻の訪日があり、また警備上の問題で断念した天皇の名代で皇太子がやっと沖縄を訪問。そしてその年の秋には天皇はアメリカを訪問し、この時は訪欧の時とは違って暖かく迎え入れられました。昭和59年には高円宮家の創設もありました。

天皇は大変長寿でありました。本来ならばこの辺りで退位したいところであったのでしょうが、皇室典範に退位に関する規定が抜けていました。しかし皇室典範の改訂は天皇制自体に社会党などが反対している中では困難な状況下にありました。そのため天皇は老年ではあっても死ぬまで天皇であり続けることが要求される過酷な状態に置かれました。

昭和61年4月には在位60周年記念式典が行われ、この年イギリスのチャールズ皇太子夫妻の訪問もありました。昭和62年には長く望んでいた沖縄訪問の予定も組まれます。が、直前の8月那須御用邸滞在中に腹部の張りを訴えて翌月手術。皇太子に国事代行を委任し、念願の沖縄訪問はまた中止になってしまいました。年末頃には一部の国事はできる所まで回復しますが翌年夏にまた発病。秋大相撲観戦を取りやめた後9月24日重体に陥り、3ヶ月間の闘病を経て昭和64年(1989年)1月7日6時33分吹上御所にて十二指腸腺癌のため崩御。87歳でした。

この天皇の誕生日4月29日は同年法5によって「みどりの日」として祝日のまま残ることになりました。これは天皇が全国で植樹祭を行っていたことによります。


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