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吉田茂(1878-1967)

明治11年(1878)9月22日東京神田駿河台の竹内綱東京別邸で綱の五男・茂が生まれました。(母は竹内の2度目の妻瀧(たき)。瀧にとっては最初の子供)茂は生まれてすぐに親同士の以前からの約束により横浜の貿易商吉田健三の養子になります。戦後の日本復興に力を尽くした名宰相・吉田茂の誕生でした。

彼の活動は外交官時代、戦時中の和平活動家としての時代、そして戦後の宰相としての時代の3つに大別できます。以下それを順次追いかけていきます。

竹内家は土佐藩家老伊賀氏に代々仕えて来た家柄です。伊賀氏は秀吉の重臣、山内一豊(奥さんのへそくりで名馬を買ったことで有名な人)の姉通(つう)の子・伊賀可氏の子孫で、山内一豊が関ヶ原の戦いで家康側についたことから土佐24万石を与えられて四国に来た時に付き従い、家老として宿毛城に入りました。竹内家はその伊賀氏に重んじられていたのですが幕末頃には落ちぶれていて、綱の時代にはすっかり貧乏侍になっていました。

しかし綱は持ち前の見通しの良さと誠実さで、最初樟脳の販売で土佐藩の財政を潤し、維新後は後藤象二郎に重んじられて財界で活躍しました。しかし茂が生まれた時はつまらぬ事件に連座して刑務所に入ったりしていた頃でした。

茂は11才の時に養父を亡くし、若くして莫大な財産を受け継ぎます。その後、小笠原東陽の耕余義塾に学んだ後、高等商業学校(後の一橋大学)、東京物理学校(後の東京理科大)などいくつもの学校を短期間ずつ転々としてから明治30年10月学習院に入り、ここで7年間学びます。学習院は華族の子弟ばかり集まっていましたが吉田茂も十分な「お坊っちゃま」。ここで彼は自分の人生の進路を見出しました。それは外交官として生きる道です。

明治37年東京帝大に移り、同39年7月卒業して外交官試験を受けて合格。この時の同期に彼に後々まで深く関わることになる広田弘毅もいました。

明治40年奉天領事館に赴任、すぐに実質的な領事代行になります。翌年帰国してロンドン赴任を命じられ出発前の明治42年3月、牧野伸顕(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚します。これは実父竹内綱が積極的に進めた縁談でした。夫婦そろってイギリスへ赴任して1年ほど務めた後、イタリアへ移り、イタリア万博の事務に携わります。そして明治45年帰国。

元号が改まって大正元年、安東領事兼朝鮮総監府書記官に任命。このとき、大熊重信内閣の対華21ヶ条要求に彼はただ一人反対しました。むろん内閣は一介の領事の意見など聞かずゴリ押しをしてこれを中国に押しつけ、国際世論の反発を招きます。この反抗が災いして大正5年帰国してから資料整理の仕事に左遷。この時の吉田はふてくされており、外務次官だった幣原喜重郎から呼び出しがあっても聞こえないふりをして仕事をサボタージュしていたといいます。

大正7年済南領事を半年ほど務めた後、義父・牧野伸顕のパリ講和会議出席に随行して渡欧、そのままイギリス大使館一等書記官としてヨーロッパに残りますが、この時重要な出会いがありました。皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のヨーロッパ歴訪をロンドンでお迎えします。この時吉田は裕仁親王の人柄に感動し、また自分が持っている英国観・英国皇室観を熱く皇太子に語りました。

大正11年実父竹内綱が亡くなったのに伴い帰国、そのまま天津総領事、奉天総領事をつとめ、昭和3年には田中義一首相兼外相に抜擢されて外務次官になりました。その後イタリア大使を短期間務めたあと、広田弘毅外相のもとで海外の大使館を巡回する特命を受け、それを数年間続けました。そして昭和10年11月定年退官。

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広田弘毅は吉田の同期生ですが、吉田と違ってエリトーコースを歩んでいました。彼はこのままではいづれアメリカと戦争になると考え、それを回避するための必死の作業を続けていました。

当時この広田弘毅の対外政策が成功して、もし日本が平和な国家に戻っていたら、吉田の社会活動はこれで終わって、反骨精神旺盛で、筋の通らないことを嫌う、気骨のある外交官としてだけ吉田茂は一部の人の記憶の中に残ったものと思われます。しかし時代はそれを許してくれませんでした。

広田弘毅の外交活動も内部に軍部という爆弾を抱えたままではどうにも実を結びませんでした。昭和11年、とうとう226事件が起きて岡田内閣がひっくり返ります。その後任として白羽の矢が立ったのはその広田でした。広田は自分はただの外交官だとして首相就任要請を頑固に拒否しますが、その説得役として吉田が駆り出されました。広田は口説き落とされて首相になりますが、結果的にはこれは彼に絞首台への道を歩ませることになります。

広田はその自分を口説き落とした吉田を組閣参謀にして新内閣を作り吉田を自分の後任の外務大臣に指名します。この内閣がこのまま発足していたら、日本はひょっとすると悲惨な戦争への道を歩まずに済んだかも知れません。しかしここに軍部から横やりが入り、戦争拡大に否定的な吉田は外務大臣に就任することができませんでした。広田弘毅は手足をもがれたような状態で苦しい内閣運営をしなければなりませんでした。

吉田は外務大臣にできなかったお詫びとしてイギリス大使に任命され英国へ赴きますが、やがて日英関係の悪化により帰国。この時彼は英国首相に何とか戦争をやめさせるよう工作してみるから日本を見捨てないで欲しいと言い残しました。しかし既に外務省を定年退官してただの市井の人である吉田には工作を実らせるだけの充分な影響力は発揮できませんでした。そんな中、長年連れ添った妻の雪子が乳癌で死亡。意気消沈している間にとうとう日本は対米開戦してしまいます。

そんな吉田を尋ねてきた人物がいました。鳩山一郎と岩淵辰雄です。彼らは無謀な戦争を続ける東条英機を退けて和平志向の内閣を作るべく相談を進めます。吉田邸にはその路線の人々が多数集まり、過激な細川護貞などは東条を暗殺しようとまで言いましたが、さすがにこれはたしなめられます。東条に代わる首相候補として穏健な宇垣一郎元陸軍大将や小林躋造海軍大将などの名前が検討されました。

しかし当局も彼らの動きをいつしかつかんでいました。特高は吉田邸内に2人の女性スパイをお手伝いとして潜入させ、彼らの動静を念入りに調べました。そして昭和20年4月15日、吉田は突然特高に連行され投獄されます。岩淵らも同様に拘束されており、刑務所が火事になった時に再会しました。結局彼らは5月いっぱいまで拘束された後、仮釈放されました。

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終戦。

天皇の肉声による放送があると聞いた時、吉田は天皇の性格からしてその内容が何であるか、きちんと分かっていました。

昭和20年8月17日発足した東久邇宮内閣は英米にうけのいい人物を中心に閣僚を揃えようとし、イギリスに3度にわたって外交官として赴任していた吉田茂を外務大臣に迎えようとします。しかしこの時は木戸幸一が反対して実現せず、重光葵が外相になり、ミズーリ号での降伏文書調印を行います。しかし重光は首相にも米軍にも非協力的であったため解任され、昭和20年9月17日代わって吉田茂が外務大臣に任命されました。この時66歳。政治家としての非常に遅いスタートでした。

外務大臣に就任した吉田は早速マッカーサー元帥と会談します。この席で彼は昭和天皇の人柄をよく説き、これからの日本にぜひとも必要な人物であることを主張、そしてイギリス風に天皇を国の象徴として扱うことを提案しました。マッカーサーは即答を避けますが、すぐに27日天皇との会談を行い、吉田が言った昭和天皇の性格というものを確認します。

この天皇とマッカーサーの会談時の記念写真は、平服のマッカーサーに対して正装の昭和天皇、背の高いマッカーサーと低い天皇、がみごとに対比されており、国民に「日本は負けたんだ」という意識を強烈に植え付けます。この写真の流布を恐れた山崎内務大臣は写真報道を差し止めようとしますがGHQが差し止めをすることを禁じ、結局これがきっかけの一つとなって東久邇宮内閣は退陣しました。

後任の首相には吉田が外務省時代の先輩であり当時隠居していた幣原喜重郎を担ぎ出しました。この辺りから吉田はもう実質日本のリーダーとして活動し始めています。がこの時はまだ外務大臣のままです。早速、幣原は吉田を伴ってマッカーサーに会いに行きますが、ここで日本の民主化に関する五ヶ条の要求を渡されました。そこには女性に参政権を認めること、労働組合の結成を奨励すること、基本的人権の保障をすること、などがうたわれていました。吉田にはそれは予想の範囲でしたが保守的な幣原にはショックでした。幣原は憲法改正の必要性を感じ、その素案をまとめますが、マッカーサーに見せると即座に拒否されます。この結果マッカーサー自身が憲法素案を書く羽目になりますが、そこにうたわれた精神はマッカーサーと吉田が共に理想と考えることでした。

昭和21年、幣原内閣は厳しい食料不足や激しいインフレなどで社会不安が高まる中、国民の不満を収めることができずに退陣に追い込まれます。その後任は鳩山一郎になるものと思われました。ところが、ここで鳩山は以前ファッショ的な著作を書いたことがあったとして、公職追放の憂き目にあってしまいます。そこで急遽鳩山は吉田自身に首相になってくれるよう要請、やむを得ない状況なので受諾。ここに昭和21年5月22日、とうとう第一次吉田内閣が発足しました。

この吉田内閣のもとで新しい憲法の制定作業が進められます。吉田はマッカーサーに負けないくらいの理想家でした。憲法9条についても彼は「過去の戦争というものはみな自衛の為といって始められたものだ」といって明確に軍備を否定します。

そして新しい憲法が成立し発効を待つ中、一足早く施行された改正選挙法により昭和22年4月25日、女性も参加した総選挙が行われました。新しい憲法の元では首相は国会議員でなくてはならないので、吉田は郷里の高知全県区から出馬、トップ当選します。しかし皮肉にも当時の社会不安を背景にしてこの選挙では社会党が大躍進、第一党になってしまったため、吉田内閣は退陣。社会党政権の片山内閣が発足します。

しかしこの片山内閣は50年後の村山内閣と同様で、社会党政権であるのに保守政権と全く同じ政策しか取ることができませんでした。人を批判するのと実際にやるのとの違いは甚だしいものです。実際に自分がやることになるわけがないと思っている人だけが無責任な批判をすることができます。

片山内閣に人々は失望し、党内外からの批判がつのって片山内閣は7ヶ月半で瓦解、芦田均が引き継ぎますが、昭和電工疑惑が起き、閣僚が逮捕されるに至って芦田内閣も退陣に追い込まれました。そしてその後を受けて昭和23年10月15日第二次吉田内閣が発足します。しかしこの時点では少数与党。政権は不安定で内閣不信任案が通ってしまい、国会解散。総選挙に入りこれに圧勝して、昭和24年2月16日第三次吉田内閣へと移行しました。しかしこの選挙の最中A級戦犯7名が巣鴨で処刑。その中で東条の処刑は当然としても、日米関係安定の為に尽力するも果たせなかった広田弘毅も含まれていたことに吉田は涙します。

この頃吉田は佐藤栄作・池田勇人ら次世代を担うべき政治家を積極的に登用しました。そして昭和24年内閣が発足するとすぐに「インフレ終息宣言」を出し「終戦の終了」をアピールし始めます。

このころ吉田が最も手を掛けたのが正式に戦争の終結となる講和条約の締結問題です。それに際してアメリカ大使ダレスは日本が独立を回復するに当たっては軍隊を持つことが必要であると主張しました。これに対して吉田はこれからの時代の安全保障はそれぞれの国が軍隊を持って自分の国を守るのではなく、国連の軍隊により全ての国の安全を守るべきだと考えていました。会談は平行線をたどります。吉田はその理想を分かち合える相手であるマッカーサー元帥を頼みとしましたが、そのマッカーサーが朝鮮戦争における発言の責任を問われて突如解任されてしまいます。マッカーサーは吉田に「日本をいい国にしてください」という言葉をのこして去っていきます。

ここで吉田もとうとう妥協を余儀なくされました。昭和26年9月8日サンフランシスコで太平洋戦争を完全に終結させる講和条約が結ばれて日本は独立を回復しましたが、この時吉田以外にはほとんどの日本人がその内容を知らされていなかった日米安保条約も同時に調印されました。吉田は国連の機能が米ソ対立によって形骸化している現状では、日本の安全保障をアメリカにゆだねる以外ないと判断したのです。そして同時に日本自体の防衛力も整備する必要性を感じていました。翌昭和27年10月には警察予備隊を保安隊に改組します。(昭和29年7月さらに自衛隊に改組)

さて、吉田を首相に押し上げた鳩山一郎は昭和26年やっと公職追放がとけて政治の世界に戻ってきます。そして吉田に首相の座を譲るように言ってきますが吉田はまだ自分の仕事は完成してないという思いがあり、これを拒否します。

拒否された鳩山はあの手この手で吉田の回りから圧力をかけてきます。これに対抗するため、吉田は奇策を用いました。昭和27年8月28日、国会が開幕したと同時に国会を解散してしまいます。『抜き打ち解散』です。

ここで行われた総選挙により、自由党内の吉田支持勢力は吉田が日本の独立を回復させたことに対する世論の圧倒的な支持により、鳩山の分派勢力を大きく上回って、これによって第4次吉田内閣が発足しました。ところがこの内閣は思わぬところでケチがついてしまいます。それは昭和28年2月28日のことでした。

その日、衆議院予算委員会で右派社会党の西村栄一が質問に立っていました。

西村:首相は国際情勢を極めて楽観しているようですが、どのような根拠にもとづいてのことなのでしょう?吉田:アメリカのアイゼンハワー大統領もイギリスのチャーチル首相も同様の見解を持っています。西村:私は欧米の政治家の意見を聞いているのではない。日本国首相として答弁されたい。吉田:私は日本国総理大臣として答弁したのである。(明らかに西村が喧嘩を売っていることが分かってきたため、やや語尾が震える)西村:首相は興奮せずに答弁されたい。吉田:無礼なことを言うな。西村:何が無礼だ。吉田:無礼じゃないか。西村:質問しているのに何が無礼だ。日本の総理大臣として答弁できないのか。吉田:バカヤロー!

この失言はさすがに問題とされ、総理大臣への譴責決議案という前代未聞の決議案が国会に上程され、しかも鳩山一郎に近い広川農相の一派が欠席したため可決されてしまいます。吉田はこの閣僚として不実な広川をとがめて罷免します。閣僚の罷免というのは戦後3度しか起きていませんが、この時がその内のひとつです。

勢いに乗った野党は続けて内閣不信任案を提出。鳩山一派が自由党を正式離党、不信任案は通過して、吉田は国会を解散しました。『バカヤロー解散』です。

この選挙ではさすがに吉田も苦戦しました。結局自由党だけでは単独過半数を確保できず改進党と連立の上で昭和28年5月21日第5次吉田内閣を発足させます。

しかしこの内閣は連立政権という基盤の弱さに加えて、汚職事件によって打撃を受けます。造船疑獄です。やがてその取り調べの手が吉田の懐刀である佐藤栄作幹事長まで及ぼうとすると、吉田は犬養法相に命じて指揮権を発動させ、検察庁に捜査の中止を命じました。この強引な措置はさすがに各方面からの批判をあび、とうとう昭和29年12月7日、吉田茂は内閣総辞職の道を選びます。そして吉田の理想はやがて、彼がその政治生命と交換に守った佐藤栄作に受け継がれ、10年後に総理大臣に就任した佐藤は平和的な交渉による沖縄返還という大事業を成し遂げます。

吉田はその佐藤が首相として活躍し始めたのを見守るように昭和42年10月20日11時50分、心筋梗塞の為死去。享年89歳。マッカーサーと、昭和天皇と3人で日本の戦後復興に力を尽くした大政治家は逝きました。彼が総計約7年間の首相任期中に任命した大臣の数は79人。彼らは後に「吉田学校の生徒」と言われます。彼のような政治家が戦争が終わった時に日本に存在したというのは非常に幸運なことであったといえるでしょう。


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