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湯川秀樹(1907-1981)

明治40年(1907)1月23日、日本で初めてノーベル物理学賞を受けることになる湯川秀樹が東京で生まれました。お父さんは地理学者の小川琢治。お兄さんが冶金学者の小川芳樹、東洋史の貝塚茂樹、弟が中国文学の小川環樹。学者一家です。小川環樹氏は中国古典の本に多く関わっていますので、みなさんの家の本棚を探すと、この名前が見つかるかも知れません。小川琢治は京大教授として記憶されている方もあるかと思いますが、彼が京大に移ったのは1908年で、この時は地質調査所にいたようです。(秀樹は1932年結婚後妻の姓湯川を名乗る)

小さい頃すぐ上の兄といいますので、つまり茂樹氏だろうと思うのですが、その兄と大論争をしたといいます。それは物質の極限の粒子はあるのか、それとも物質は幾らでも細かく分けていくことができるのかということでした。

当時物質の最小単位と考えられていたのは「分子(molecule)」でしたので、お兄さんは「分子が究極の単位で、これ以上小さく分けることはできない」と主張し、それに対して秀樹は「どんなものでも更に細かい単位に分けられる筈だ」と主張しました。子供故にその時は兄に言い負かされてしまったようですが、それでも秀樹少年は自分の主張を信じていました。そして彼が京都大学で学ぶ頃には、その「分子」よりも小さな単位「原子(atom)」が発見されており、更にはその「原子」を構成する「原子核(atomic nucleus)」とその周りを回る「電子(electron)」が発見されていました。

(原子核の発見は1911年ラザフォードですが、秀樹が兄と論争した時点ではまだこの結果が広くみんなの認めるものとなっていなかったのでしょう。)

秀樹は京大卒業後、同大学の講師となり、1933年に大阪大学講師に移っています。その移籍の前年1932年、チャドウィックが原子核が陽子(ようし,proton)と呼ばれるプラスの電荷を持った核子と、中性子(ちゅうせいし,neutron)と呼ばれる電気的に中性の核子が幾つか集まってできていることを発見しました。

しかしここで深刻な問題が起きていました。

なぜ原子核が壊れないのかという問題です。つまり原子核にはプラスの電荷の陽子と電荷を持たない中性子だけですから、常識的に考えるとプラスの電気同士で反発してバラバラになってしまいそうです。

一応電子はマイナス電荷を持っていますが、これは原子核の遙か遠くを回っています。よくあるたとえですが、原子核を野球のボールに例えると、電子が回ってる軌道というのは、だいたいそこから0.5km程離れた場所です。この距離から原子核の崩壊を電気的に抑えることが出来るわけがありません。

ここで秀樹は1934年ここに未知の粒子が関与していることを予測しました。すなわちこの原子核を構成している陽子や中性子がお互いにこの粒子をやりとりすることにより、結びつき合っているというものです。そしてその重さは理論的な計算から140MeV程度であると予想しました。電子が0.5MeV,陽子や中性子が938MeV程度ですので、その中間の重さを持つということから、この粒子は「中間子(meson)」と呼ばれます。(論文発表は翌1935年)

(MeVは「メガ電子ボルト」と読んで下さい。メガはもちろん100万の意味)

この理論に対する世界的な反応は必ずしも暖かいものではなかったようです。この湯川の理論は実はそれまでの物理学的な常識というより哲学的なものを揺るがす大胆な理論であったため、その道の権威の人たちからの冷たい意見もあったようですが、幸いにも翌年1936年、Carl David Anderson がそれに相当しそうな重さの粒子を宇宙線の中から発見してくれました。そこでこれが湯川が予測した粒子ではないかということになり、この結果、湯川は1940年に京大教授となり、1943年には文化勲章も受章します。

しかし実を言うと、アンダーソンが発見した粒子は湯川が予測したものとは色々性質が異なっていました。そもそも重さが140MeVではなく105MeV程度と小さかったですし、寿命に至っては予想の100倍ほどの長生き粒子でした。しかし、1947年になってCecil Frank Powellが湯川が予想した通りの中間子を発見してくれました。これがπ中間子と呼ばれています。

そして実はこの1947年、アンダーソンが発見した粒子は中間子ではなくて!!電子の仲間(レプトン)であるミューオンであることが分かりました。湯川が予測した、原子核の崩壊を防いでいる力は「強い相互作用」と呼ばれますが、このミューオンは逆に原子核を崩壊させる時に働く「弱い相互作用」の方に関与しています。そしてこのミューオンは現在我々が知る物質の究極の粒子12個の内のひとつです。

科学の発展というのは、時々こういう幸運な誤解を乗り越えて来ています。

※参考までに素粒子(subatomic particle, elementary partile)のおおまかな分類

  素粒子―+―バリオン    陽子・中性子・Σ粒子など+−中間子(メソン) π中間子,K中間子,η中間子など+−レプトン    電子,ニュートリノ,ミューオンなど+−ゲージボソン  光子,グルーオン,ウィークボソンなど

※ついでに2000年時点での物質の究極の粒子12個(正確にはこれらの反粒子もある)

      第一世代   第二世代    第三世代電荷+2/3 Up Quark   Charm Quark  Top Quark電荷-1/3 Down Quark  Strange Quark  Bottom Quark電荷-1  電子     ミューオン   タウ電荷 0  ニュートリノ ν(μ)     ν(τ)

湯川は戦後いろいろあって1948年アメリカに渡り、コロンビア大学教授となりましたが、その翌年1949年彼にノーベル物理学賞が贈られました。パウエルの研究により、湯川理論の正しさが実証されたことを受けたものです。一般に近年の物理学の分野では理論の正しさを証明するために何十年もかかることが多く、実証されてからでないと贈られないノーベル賞は、かなり遅れて授与されることが多くなっています。場合によっては別の理由を付けて贈られる場合もあります。

アメリカに渡った当初湯川はアインシュタインと会う機会を得ますが、実は彼の理論に当初一番冷たい反応をしたのがアインシュタインであったため、湯川も何かまた難癖を付けられるのではないかと恐れたと言いますが、アインシュタインはそんなことよりも、原爆の日本への投下を止めきれなかったことを涙を流して謝ったといいます。湯川はこの後、アインシュタイらと共に平和運動にも力を入れていくことになります。

自分たちの研究があのようなものに使われたことに対して、それは当時の世界中の第一線の物理学者の共通の思いであったでしょう。

そして権威に弱い日本の学会はノーベル賞に慌てて、1953年京都大学に席を用意し、湯川を日本に呼び戻します。しかし彼の日本復帰はその後の多くの日本の若い優秀な物理学者が生まれる契機となったのは確かです。

1981年9月8日死去。なお日本で二番目にノーベル賞を受けた「くりこみ理論」の朝永振一郎は湯川の高校・大学時代の同級生です。


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