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モーツァルト(1756-1791)

近世以降の音楽史上最大の天才、ヴェルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、オーストリアのザルツブルグで生まれました。

父レオポルドはザルツブルクの宮廷楽団ヴァイオリン奏者。早くから息子の才能を見い出し、6歳の時にもならない内にヨーロッパ各地に演奏旅行に連れていきました。1762年10月、オーストリア女帝マリア・テレジアの御前で演奏。女帝を感動させ、大礼服を賜ります。1763年にはパリでルイ15世に謁見、翌1764年にはロンドンでジョージ3世と謁見。この時バッハとも出会っています。

モーツァルト一家の演奏旅行はこの後何度もおこなわれていますが、1770年にはヴァチカンで門外不出の秘曲「ミゼレーレ」を一度聞いただけで楽譜に書き留めてしまいます。この天才に対して法王クレメンス14世は彼を法王庁騎士に任じ「黄金拍車勲章」を授けました。この年ボローニァのアカデミア・フィラルモニカの名誉会員、翌年ヴェロナのアカデミア・フィラルモニカの名誉楽長に任命。

モーツァルトは1769年にザルツブルク宮廷楽団の第3ヴァイオリン奏者に任命されていましたが、1771年に彼に親切であったザルツブルグのシュラッテンバッハ大司教が亡くなると、後任のコロレド大司教は彼と何かと対立。とうとう1781年、休暇の期限をモーツァルトが守らなかったことがきっかけとなって彼は宮廷楽団をクビになってしまいます。25歳の時でした。

その後の彼はウィーンを拠点として活動することになります。1782年コンスタンツェと結婚。ウィーンでは主として貴族の子弟の音楽教師をして暮らしていました。この年から彼は自分の作品の目録を作り始めています。それ以前の作品は後にケッヘルによって整理され年代の推定が行われました。そのため、彼の作品は一般に「作品番号」ではなく「ケッヘル番号」で呼ばれます。

ウィーン時代に俗説では彼はこの天才の力量を恐れるサリオリら多くの凡人音楽家たちの反発により、宮廷音楽家(1787年任命)としての給料も安く抑えられ、コンサートにも人が集まらず、また音楽教師の口もだんだん少なくなっていって非常に経済的に困窮したとされています。

経済的困窮は事実ですが、やはりそこには凡人の反発というよりも彼の世渡りのあまりの下手さがあったのでしょう。彼の才能はただ音楽だけに発揮されたと考えた方がいいのかも知れません。また彼は経済的に困窮しているにも関わらずたいへんな遊び好きで、頻繁に友人達を集めてパーティーのようなことをしているようです。そして彼はその場で即興で多くの曲を作って演奏していますが、その多くはもったいないことに譜面が残されていません。

彼の妻コンスタンツァも彼同様かなりの遊び好きであったようで、彼女は夫の死後何十年も墓参りさえしていないこともあり、しばしば悪妻の典型といわれるのですが、実際には二人は似たもの同士であり大変仲が良く、本人達が良ければそれで良かったのではないでしょうか。彼女が墓参りをしなかったのは「生きているアマデウス」に彼女の愛が集中していたためとも考えられます。

彼は1787年4月にウィーンを訪れた16歳のベートーヴェンと会っています。この時、彼の演奏を聴いたモーツァルトは「諸君、この少年を記憶しておきたまえ」と言ったと伝えられます。

恐らく近世音楽史上モーツァルトの次の天才を捜せばベートーヴェンだと思われますが、この二人の天才は正反対の性格でした。ベートーヴェンの楽譜に多くの修正痕が残るのに対して、モーツァルトの楽譜にはそれが全くありません。ベートーヴェンは多くの苦渋の中から曲を絞り出しましたが、モーツァルトは天から聞こえてくる調べを記憶から消えない内に一気に書き記したのでしょう。彼の筆が一度止まってしまった楽譜は決して続きが作られることはなかったといいます。

そういう性格は誰かの依頼を受けて曲を作る場合、しばしば依頼主を困らせることもあります。1787年10月、彼は「ドン・ジョヴァンニ」のための音楽を依頼されていましたが、初演の2日前になっても彼は序曲を書き出すことができませんでした。業を煮やした劇場支配人は彼を2日間別荘に缶詰にして強引にこの曲を書かせました。こういう性格では凡人音楽家の反発がなくても次第に仕事が来なくなる訳です。

また彼は少年時代からフリー・メーソンとの関わりがあったようですが1785年に正式にこの魔術団体に入会しています。「魔笛」などもフリーメーソンの団員の依頼により作られたもので、この劇の中には魔術の儀式や象徴が多く取り込まれています。

この魔笛が公開された年1791年のある日、伝説によれば突然モーツァルトの家を黒い服装をした謎の男が現れ「レクイエム(鎮魂曲)」の作曲を依頼しました。(歴史的記録によれば彼にこの曲を依頼したのはフォン・ヴァルゼック伯爵である)

しかし彼はこの年の夏過ぎ頃から急速に体調を崩していました。9月頃友人に宛てた手紙の中で「私は見知らぬ人の影を自分の目から追い払えません」と書いています。彼は死神の姿でも見ていたのでしょうか。10月、出産のため彼の許を離れていた妻コンスタンツァが戻ってくると、彼女は夫の衰弱した姿に驚いたといいます。

そしてこの年12月5日0:55分、天才音楽家はわずか35年10ヶ月の生涯を閉じました。「レクイエム」は結局未完に終わり、弟子のジュスマイヤーが補作して依頼主に納品されます。彼の若すぎる死に驚いたハイドンは、彼のような天才は今後100年しても現れないでしょう、と追悼の意を表しました。

しかし200年以上たった今も彼に並ぶ天才は現れていないと言ってよいでしょう。生涯に作成した交響曲41本、更に50本以上の協奏曲(ピアノ27本,ヴァイオリン7本など)、23本の弦楽四重奏曲、20本のオペラ、20本のミサ曲、などなど。その作品は短い生涯にも関わらず、極めて多数でしかも高品質。特に交響曲に関しては、彼以上の作品数を残したのはハイドンのみです。


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