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ゴッホ(1853-1890)

「炎の画家」フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)は1853年3月30日ベルギーとオランダの国境付近ブラバント地方のフロート・ズンデルト(Groot-Zundert)村に生まれました。父は牧師でした。

16歳の時に画商を営む叔父の会社に入り、最初ハーグ、それからロンドンで勤務します。ロンドン時代に下宿先の娘に恋をしますが失恋。その後パリに異動しますが、この頃から仕事をさぼるようになり長期の無断欠勤をして解雇。一時は牧師を目指しますが古典の勉強に根を上げて挫折。正式の資格が取れないまま伝道生活を続けますが27歳(1880)頃には画家になりたいという気持ちが強くなってきたといいます。その頃から1886年頃までが彼の第一期です。代表作は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」。

29歳の時ハーグで絵のモデルを務めていたシーン(クラシナ・ホールニック)と同棲しやがて子供ができますが、翌年には関係が悪化して離別。31歳の時にはヌエネンで8歳年上の女性マルホット・ベヘマンと愛し合い結婚するつもりでしたが周囲の反対で破局。相手は自殺未遂を起こす騒ぎがありました。そして1885年には「馬鈴薯を食べる人々」のモデルの一人ホルディナ・デ・フロートが妊娠し、その父親がゴッホであるという噂が立ち、ヌエネン村の司祭は女性たちにゴッホのモデルとなることを禁止する通達を出しました。そこでゴッホは村を離れアントワープ、そしてパリに移りました。ここから彼の第二期が始まります。

パリで彼はベルナールやゴーギャン、トゥールーズロートレックなどと親しく付き合い、一時は美術学校にも行くのですが授業になじめずすぐにやめています。パリでは弟のテオの家に同居。彼の生活費は実は以前からこのテオから出ていたのでした。この頃から彼のキャンバスは明るくなってきます。この時代の代表作は1887年の「モンマルトルの畑」です。

しかし彼は次第に弟に多大な負担を掛けるのが申し訳なく思うようになり、またもっと暖かいところに行きたい気持ちも出てきて、1888年アルル地方に移動します。しばらくホテルに滞在したあと同年5月「黄色い家」に定住。ここでゴーギャンと共同生活を送りながら制作活動を行いました。ゴッホにとってもっとも精神的に充実した日々であったかも知れません。これが第三期。黄色い家にいた15ヶ月の間に「アルルの跳ね橋」「向日葵」などをはじめ200点もの作品を制作しています。

1888年12月。ゴッホとゴーギャンは互いの肖像画を描き合おうということになり、ゴーギャンは「向日葵を描くゴッホ」を制作。しかしその絵を見たゴッホは自分の中に何か異常なものを見いだし、思わずゴーギャンにグラスを投げつけました。そして12月23日。彼は発作的に自分の耳を切り落とします。ゴーギャンは二人の生活が破綻したことを知り、黄色い家を去りました。

翌1889年1月、耳の怪我の治療を終えて黄色い家に戻りますが、病的な発作が度々彼を襲いました。3月、市長が市民からの要請にもとづきゴッホを監禁することを決定。5月、サンレミの精神病院に入院します。そしてその後、制作を続けながらも何度も精神錯乱に陥ったりしました。このサンレミ時代以降が第四期になります。「糸杉」などの名作があります。

翌1890年7月27日オヴェールでピストル自殺をはかりますが急所をはずれて即死には至りませんでした。いったん宿に戻りますが結局29日午前1時30分弟のテオなどに看取られて死去。享年37歳。

翌年にはテオが兄の後を追うように死去し、ゴーギャンはタヒチに旅出ちました。


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