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シャルル・ルルー(1851-1926)

皆さんは次のような童謡をご存じでしょうか? 

  一番はじめは一宮二は日光東照宮三は讃岐(さぬき)の金比羅(こんぴら)さん四は信濃の善光寺五つ出雲の大社(おおやしろ)六つ村の天神さん七つ成田のお不動さん八つ八幡(やはた)の八幡(はちまん)さん九つ高野(こうや)の弘法(こうぼう)さん十で所(ところ)の氏神さん

歌詞は地方によって相当のバリエーションがあります。昭和初期の頃全国的に流行した歌で、手鞠をついたりお手玉をしたりしながら、女の子たちがこの歌を歌っていました。後にこの後に別の物語がくっついてしまったバージョンもありますが、ここでは割愛しましょう。

この歌の歌詞を作ったのが誰かは分かりませんが、この歌はルルーという人が作った「抜刀隊」という歌の替え歌になっています。9月12日はそのルルーの誕生日です。

シャルル・エドアール・ガブリエル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux)は1851年9月12日にフランスのパリで生まれました。出生証明では9月13日14時半生まれとなっているのですが、本人は一貫して9月12日生まれだと言っていたそうですので、9月12日を取っておいてよいと思います。

1870年にパリ音楽院に入りピアノを専攻、1872年にフランス陸軍に入り翌年連隊音楽兵になります。軍楽隊長まで昇進した後、1884年第三次フランス軍事顧問団の一員として来日、日本の陸軍軍楽隊の指導に当たることになります。彼の及ぼした影響というのは大きく、基本的に日本の陸軍はドイツ式でしたが、この後軍楽隊だけはフランス式になります。

彼が軍楽隊の指導を始めた時、軍楽隊のメンバーの音楽レベルというのは非常に悲惨な状態でした。ほとんどの隊員が譜面が読めず、音楽に関する知識も皆無ならば学ぼうとする意識の全くない者、そして多数の脱走者。ルルーは年齢が高くてやる気のない者は外し、試験をして成績の良かったものや、教育効果の出やすい20歳以下の兵を集めさせ、軍楽隊のコアにするための「教育軍楽隊」を編成してスパルタ教育を施しました。音楽理論、ソルフェージュ、写譜、..... 兵の方も大変だったでしょうが教官側ももの凄く大変な教育だったようです。こうしてルルーが在任した4年間の間に日本の軍楽隊は見違えるようになっていきます。

当時は鹿鳴館ができたばかりの頃で、軍楽隊はこの鹿鳴館での演奏を乞われますが、ルルーは着任してから約半年間、これを断り続けました。つまりとても人様に聞かせられるような演奏ではなかったということでしょう。そしてルルーが来日してから1年弱たった1885年の夏、抜刀隊がその鹿鳴館で披露されました。

この歌は西南戦争での巡査隊の活躍を歌ったもので「われは官軍わが敵は」という歌い出しでした。作詞は外山正一、愛国的な軍歌を作って欲しいという要請に応えて作られたものです。そのシンプルなメロディーは明治天皇も気に入り、全国に広まりました。そしてやがてその替え歌の数え歌が誕生する訳です。(抜刀隊の替え歌は「一番はじめは」以外にもいくつかあるようです)

その後ルルーは1889年帰国したあと1等楽長(大尉相当)まで出世し、1900年にはレジョン・ドヌール賞を受賞、また日本も1910年に勲四等瑞宝章を贈っています。1926年7月4日ヴェルサイユにして死去。享年74歳でした。日本の古典音楽に関する論文があります。


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