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ジミー・カーター(1924-)

符合というのでしょうか。10月2日はスヌーピーの誕生日(1950)なのですが、スヌーピーはピーナッツ、ということで1924年10月1日、ジョージア州のピーナッツ農園の家Carter家に一人の男の子が生まれました。これが39代アメリカ大統領となるJamesでした。

お父さんの名前も同じJamesです。1946年に海軍兵学校を卒業、7年間海軍で勤務して少佐の位まで昇進しています。海軍では原子力潜水艦に関する仕事をしていました。

1953年に父の死に伴い海軍を辞してジョージア州に戻り、ピーナッツ農園の経営を引き継ぎます。この頃結婚。そして1962年のジョージア州の州議会議員になり、1971-1974年には州知事を務めました。

1976年の大統領選挙で民主党の大統領候補の指名を獲得。共和党の現職フォードを僅差で破って大統領に当選しました。そして彼は1977年1月20日大統領に就任する際の署名に、本名のJamesではなく、愛称のJimmyで署名したため、大統領としての正規の名前は Jimmy Carterになります。52歳という若い大統領の誕生でした。

1977〜1981年の4年間の在任期間、彼がもっとも力を入れたのは深刻な不況からの脱出と、あふれる失業者の対策でした。彼はこのため強力な指導力により各種の規制緩和を進め、ベンチャーや新規参入業者が出やすくして、動脈硬化に陥っていた産業界の活性化を図ります。一方では大量の財政出動を行って、雇用の創出に腐心しました。現在の日本ではデフレが問題になっていますが当時はスタグフレーション(不況下のインフレ)が問題になっていた時期で、彼はインフレの防止にも頭を痛めなければなりませんでした。

その一方で彼は世界の平和のために大きな貢献をします。1978年9月5日、キャンプデービッドの大統領別荘に、エジプトのサダト大統領、イスラエルのベギン首相を招き、両者の間に画期的な「キャンプデービッド合意」を結ばせて、エジプトのイスラエルとの単独和平を実現。親パレスチナ諸国の反発こそありましたが、中東情勢は大きく安定へと進むことになります。

1979年11月4日、この年起きたイラン革命の流れの中で、西洋への反感の強い一部のグループがアメリカで病気の治療を受けることになった前国王のイランへの引き渡しを求めてアメリカ大使館を占拠し52名の人質を取って立てこもるという事件を起こします。これに対してアメリカは特殊部隊のデルタフォースを使って人質救出を試みますが、使用したヘリコプターがイランの砂漠の砂のためローターが故障、不時着するという極めて恥ずかしい失態を演じ、アメリカの特殊部隊の評価は著しく低下しました。

(事件は結局1981年アメリカがかなり屈辱的な条件を飲んで協定を結び、それにより人質は解放される。しかしこの事件に伴いアメリカはイランを「テロ国家」と認定した。なお1980年にはイギリスのロンドンで今度はイラン大使館が占拠される事件があったが、これはイギリスの特殊部隊SASが強行突入して人質に2名の死者を出しながらも解決した)

この1979年という年はカーター政権にとってはまさに厄年でした。この年12月27日、今度はアフガニスタンではクーデタが発生。それを口実にしてソ連がアフガニスタンに軍事展開して、親ソ派組織の支援を始めるという暴挙に出ます。これに対してアメリカはソ連への各種報復措置を発表、1980年に予定されていたモスクワ・オリンピックにもアメリカは参加しないと発表しました。結果的にはこれに日本なども追従して、柔道の山下やマラソンの瀬古などが「幻の日本代表」になってしまいました。

結局努力はし、アメリカ再生への基礎は作ったものの、完全なアメリカ復活とはいかず、むしろ「弱いアメリカ」という断面を見せることになってしまったカーターは1983年の大統領選挙では共和党のレーガンに破れ、わずか1期で退くことになってしまいました。

大統領退任後はジョージアのピーナッツ農園を売却、「カーターセンター」を設立して、世界の平和のための活動に従事しています。彼はその後赤十字などとも協力して世界各地の要人と会談し、戦争捕虜の釈放を実現するなどの実績をあげています。


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