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ビル・ゲイツ(1955-)

世界最大のIT企業マイクロソフトの総指揮官ビル・ゲイツ(William Gates Jr)は1955年10月28日21:15アメリカのシアトルで生まれました。

彼のことを時々William Gates II と書いている人がいますが、彼の父も祖父もWilliamですので、William Gates III と書かなければなりません。名家の息子で、彼の曾祖父は国会議員、祖父は国立銀行の副頭取、父は有名な弁護士でした。

1968年彼が通っていた学校で、これからはやはりコンピュータの時代になるのだろうということで生徒たちにコンピュータに触れてもらおうと、市内のコンピューターセンター(昔はよほどの超大企業でない限り、こういう所のコンピュータを利用していた)からTSSの端末を数台引いてもらいます。彼はこの面白い「おもちゃ」にすっかり夢中になってしまい、端末の使用料金(CPUの使用時間で料金を払わなければならない)でお小遣いがなくなってしまって、いつも困っていました。

その時、彼と同様に凄い使用料金を払ってやはりピーピー言っている生徒がいました。それがポール・アレンでした。二人の運命的な出会いでした。

しかしこの二人にすばらしい救世主が現れます。市内でコンピュータソフトを作っている会社がその二人の話を聞き(そこの支社長の息子が同じ学校にいた)自分たちのソフトのテスターとして雇ったのです。お陰で二人は好きなだけそこの会社でコンピュータを使える環境を得ることができました。

二人はやがて趣味が高じて1971年にトラフォデータという会社を作ってコンピュータ関連ビジネスに手を染めます(ゲイツ16歳)。しかしこの会社はすぐに倒産してしまいました。その後アレンの方はハネウェル社に入ってコンピュータの仕事を続けました。

一方のゲイツはケント・エヴァンスという友人とロジック・シミュレーションという会社を作ります。ところがこの相棒のエヴァンスが事故死。彼は途方にくれてしまいました。彼は元相棒のアレンに「もう一度一緒にやらないか?」と持ちかけます。これが1972〜1973年頃のことでした。

1974年、MITS社のエド・ロバートは「コンピュータの組み立てキット」という画期的なものを発売します。当時この会社はマイクロプロセッサを売っていたのですが、思うように売れず経営がかなり苦しくなっていました。彼は部下に「君だったら、どんなものなら買うかい?」と聞きます。部下は答えます。「そうですね。これにメモリーも添付されていて、キーボードも付いていたらいいですね。贅沢をいえばそれを納める箱なんかもあったらいいですね」といいました。「じゃ、それを売ろうじゃないか」とロバート社長は言いました。

当時一番安いコンピュータであったミニコンでも数千万円していました。しかし彼はこの「コンピュータ組み立てキット」Altair8800を 420ドル(15万円)という挑戦的な価格で売り出しました。今までコンピュータを使いたいものの、自由に使えるマシンが近くになくて悩んでいた多くのマニアがこれに飛びつきAltairは大いに売れます。

しかし、Altairには泣き所がありました。ソフトが何も無かったことです。

マニアはこんなものでも自分で少しずつプログラムは作っていけば問題ありませんでした。しかしこのAltairのヒットを見て「自分の会社で仕事に使いたい」と考える、多くのビジネスマンがいました。その多くが高価なミニコンの使用料をとても払えない、小さな会社の経営者でした。彼らはそのマシンの上で動く「ソフトウェア」を求めていました。

当時MITS社には「Altairで動くソフトを作ったので買って欲しい」という電話が大量にかかってきていました。ロバートも最初は一件ずつ丁寧に対応していたのですが、ことごとくマトモなものではなかったため、その内「持ってきてくれ。動いているのを見たら買ってあげるよ」と応対するようになりました。

そんな中にポール・アレンという青年もいました。彼はAltair上で動くBASICを作ったと言ってきました。持って来いというと数日後彼はやってきました。

アレン達は実はAltairをまだ入手していませんでした。そのため、彼はゲイツと共にAlatirの公開された仕様を元に、手近なミニコン上にシミュレーターのソフトを作って、その上でソフトを開発したのでした。アレンにとっても実は初めて実物のAltairに触ったのですが、そんなことはおくびにも出さず持参した紙テープを機械に掛けます。そして起動を掛けました。

Altairは少しだけ「カタッ」と動いて止まりました。

予定では当然もっとたくさん動く筈でした。アレンは青くなります。しかしロバートは言いました。「動いたね」

「動く物を持ってきたのは君が初めてだよ」とロバートは続けました。びっくりするアレンに彼は言います。「バグの原因を調べてもっと動くようにしてくれ」と。

結局それから約半月ほど、アレンは(旅費が一人分しか確保できなかったため)シアトルに残っているゲイツと電話でやりとりしながらプログラムをデバッグし、完全に動くBASICを仕上げることに成功します。ロバートはこのBASICを30万ドル(8000万円)という高額で買ってくれました。

そしてMITSのAltairはそこで動くBASICが登場したことでビジネスソフトなどが簡単に作れるようになり、ますます売れ行きが伸びます。そしてゲイツとアレンはこのお金を元にゲイツにとっては3回目の会社である Micro-Softを設立しました(後にMicrosoftと改名)。ゲイツ19歳、アレン21歳の時でした。

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MicrosoftはBASICという武器に毎年業績を伸ばしていっていました。そんなある日、1978年頃のことでした。彼らのオフィスに突然IBMの社員が訪れ、いきなり「ビジネスの話をしたいのでこの書類にサインしろ」と言います。その書類には「この企画に関して知ったこと、開発したことを一切口外しないし、自社の製品に転用してはならない」という条項がありました。しかも何のビジネスの話なのかは、署名するまでは何も言えないと言います。

かなり無茶苦茶な話なのですが、ゲイツはこれにサインしてしまいました。(この決断力はやはり若さゆえか)

するとIBMの社員は新しいパソコンを開発したいので協力して欲しいと切り出しました。当時パソコンの世界ではアップル社のアップルIIという機械がベストセラー機になっていました。今はまだ大したことはないものの今後IBMの牙城である大型コンピュータの売れ行きにも影響が出るとIBMは読んでいました。そこで自らパソコンを発売して対抗しようと考えたのですが、今までのIBMのやり方で進めていては、とても価格的にアップルに対抗できるようなものは作れないと経営陣は判断します。そこでIBMではこのプロジェクトに関して若い技術者に全権限を委譲し、材料やソフトにしても従来のような自社開発ではなく他社に委託してもよいとしていました。しかし委託してそこから情報が万一にも漏れては困るので、具体的な話をする前に守秘義務契約をするという乱暴な方法を採ったのでした。

IBMではCPUにはインテル社の8080を考えていました。そしてそこで動くOSとしてCPMを考えていたのですが、このOSを「調達」してくることを命じられた営業マンが実はCPMの製造元をうっかりMicrosoftだと思いこんで、ここに来てしまったのでした。

CPMを作っていたのはDigital Research社です。ただマイクロソフトはそのシミュレーターを発売していました。そこでIBMの社員が勘違いしてしまったのでした。ゲイツがそのことを指摘すると、それは申し訳なかったと謝り、改めてDigital Research社に向かいました。

彼がDigital Research社を訪れた時、社長のキルドールは不在で彼の奥さんが対応しました。そしていきなりマイクロソフトと同様に守秘契約への署名を要求するのですが、彼女は困ってしまいました。その条項の中に「開発したものを自社製品に転用してはいけない」とあるので、その開発をしている最中に開発した別の製品にも『その技術が転用されている』とクレームを付けられたりしたら、何も販売できなくなってしまうのではないか、と恐れたのだといいます。

しかしIBM側はその契約を結んでもらえない限り何の話なのかは一切言えないといいます。結局交渉は決裂してしまいました。

この付近の話はかなり微妙で、当時のことを知る人の言い分が全部違います。上記の話はキルドールが亡くなる前日に偶然訪れた日本の報道関係者に語った話なのですが、別の人の言い分ではIBMは誠意を持って相談したのにキルドールが約束をすっぽかしてゴルフに行ってしまったので、こういう人とは一緒に仕事ができない、とDigital Researchを諦めたともいいます。

とにかくIBMはCPMを調達することができなくなり、この方面に明るいマイクロソフトに再度相談に訪れました。そして話し合いの結果、ちょうどマイクロソフトの事務所の近くにあってよく知っていた SCP(Seatle Computer Products)という所が作っている CPM のクローンOSを買うことを決めます。そしてIBMでは、そのOS (SCP-DOS) をマイクロソフトの手で改造してIBMの新型マシンに適合するように調整して欲しいと依頼しました。

そこでマイクロソフトのNo.3であるSteve Balmerが「じゃ僕が買ってくるね」と言い、現金をアタッシュケースに詰めてSCPを訪れ『契約のため名前を明かせないのだけど、ある客が君の所の SCP-DOSを買いたがっている。その権利をソースコード付きで5万ドル(1200万円)で売って欲しい』と言いました。

SCPではびっくりしますが小さな会社にとって5万ドルは大金です(当時のMicrosoftにとっても大金だった)。SCPでは売却に承諾。ゲイツは自ら指揮してこの改造に当たります。その時新しいパソコンの参考にするため、当時出回っていたほとんどのパソコンを買い集めて、その動きをチェックしました。そして作り上げたのがMSDOSです。

こうしてMicrosoftはBASICに続いてMSDOSという超ベストセラーソフトを手にすることになりました。

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MSDOSの開発をしていた時にゲイツは参考にするために集めた多数のパソコンの中で異色のマシンを1台見ました。それはXerox社のスターというマシンでした。そのマシンは高価な上に動きは耐え難いほど遅かったのですが、今までのコンピュータと違って全面グラフィックディスプレイを使用し、自由に絵が描けて、マウスで操作することができるようになっていました。彼はそこに新しい時代の幕開けを感じました。

そして彼はMSDOSの開発が一段落し始めると「スターのようなOSを作ろう」として密かなプロジェクトを立ち上げます。ところがそこに同様のプロジェクトを動かしていたアップルが共同開発の話を持ちかけて来ます。実はその頃までにVisiCalc社がやはり同様のプロジェクトを進めており、近い内に市場に投入すると明言していました。

もしこのVisiCalc社が開発中のVisiOnが登場すれば、MSDOSを搭載したIBM-PCも、アップル社のマシンも大きな打撃を受けます。両者はここで共同してこれに対抗することにし、一緒に新しいシステムの開発に取り組みました。

しかしこの蜜月はあまり長く続きませんでした。結局アップルはマイクロソフトと手を切り自社単独でマッキントッシュを開発・発売し、マイクロソフトはそこに表計算ソフト Excel を提供するだけに留まりました。その背景には VisiOn が結果的に空振りに終わったこともあったようです。

アップルとの共同開発構想が崩れたゲイツはこちらも単独で「スター的なOS」の開発に取り組みます。そして1984年1月に発売されたマッキントッシュに大きく遅れて1985年11月にやっとWindows を発売にこぎ着けました。

しかし当初このWindowsはとても使い物にならないものでした。Macintoshが大きく騒がれたくさん売れたのに対して、誰もWindowsには注目しませんでした。Windowsに人々が注目し始めるのは、ゲイツの「最低でもMacintosh並みの操作性を生み出せ」という号令に基づいて開発され1987年にやっと登場したWindows2.0を待たなければなりません。その頃までにMacintoshはすっかり普及しており、そのためWindows2.0は「マッキントッシュの猿まね」の汚名まで受けます。

しかしゲイツはそのような世間の誤解は介さず、更に使いやすいOSを開発させ続けました。そして1990年やっとMacintoshに迫る操作性を実現することに成功したWindows3.0を発売、更に大改造を加えて、とうとうMacintoshを追い越したWindows95を1995年に発売しました。

その間追われる立場であったアップルの方はスピンドラー会長が社内を迷走させ続け、さらにはあちこちに会社を売却しようとしては失敗し、結果的に全くソフトを進歩させることができませんでした。

この時期IBMはこのマイクロソフト、アップルの両者に関わっています。マイクロソフトとは「OS/2」の共同開発をしていますし、アップルとは「PowerPC」の開発を行っています。そしてどちらにも惜しみなくその高い技術を注入しました。しかしマイクロソフトがそれを生かすことができたのに、アップルは全く生かせませんでした。

1996年にスピンドラーが解任されアメリオがアップルの新会長になった時、社内の「新OS開発」の状況があまりにもひどいものであることに絶句。彼はこれを直ちに中断させて、アップルの創業者スティーブン・ジョブスが独立して作っていた「ネクスト」を買収して、これを新OSの核とする決定を下さざるを得ませんでした。

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1975年の設立以来26年間にわたってMicrosoftを率いてきたゲイツですが、たまには判断ミスもしています。しかしその後必死でそれをリカバーしてきました。

Windowsの開発における初期の混乱はやはり開発指揮者の人選に問題があったと思われ、彼はその人をWindows1.0の開発終了の半年前にクビにしています。これをやっていなかったらWindows1.0は発売に辿り着かなかったろうと語る人もいます。

Mirosoftが高々と「今後はこうなる」と宣言してコンピュータ雑誌が大騒ぎしたようなもので、もう今は誰も覚えていないようなものも、細かく数えていくと色々あるように思います。

近年で最大のミスはちょうどWindows95が出る頃のインターネットに関する対応でした。当時ゲイツは現在のようなインターネット時代の到来を予見できませんでした。そのためWindows95の初期バージョンにはインターネットに関する機能を入れませんでした。彼はあくまでネットはまだ「ホスト局」の時代と考え、自社のMS Network の推進をベースに考えていました。

しかしインターネットは1995年の春頃から急速に普及し、それとともにWWWの閲覧ソフト Netscpae のシェアが急速に拡大しました。

慌てたゲイツは直ちにWindows95にインターネット機能を付加するパッケージを追加で市場投入する羽目になります。そしてNetscapeにインターネットに関して共同で事業を進める、あるいはNetscapeをマイクロソフトが買収できないかということで打診します。しかし日の出の勢いのNetscapeはこれを蹴ってしまいました。

コンピュータ業界では30年前からひとつの法則があります。それは

  『勝者は一社のみ』

という原則です。日本で例えばワープロが1996年頃までは「一太郎とその他大勢」であったように。1980年代の半ばには表計算では世界的に「ロータス123とその他大勢」であったように、この世界では「両雄並び立つ」ということは決して起きないのです。

それはゲイツにもよく分かっていました。Netscapeと仲間になれない以上、叩き潰すしかマイクロソフトの生き残る道は残っていませんでした。彼は大量の技術者を投入してNetscapeの対抗ソフト Internet Explorerの開発を始めさせ、更にそれを無料で配布するということを始めます。

Netscapeも対抗して使用期限付き体験版の無料配布を行ったりしますが、Internet ExplorerがVer3 あたりからNetscapeの機能を凌駕し始めたことからユーザーはそちらにシフト。結果的にNetscapeは経営が行き詰まり、大企業AOLに身売りします。しかしこのあからさまな対抗策は司法省が独占禁止法違反で裁判を起こすという騒動にまで発展しました。

ある意味で似たような企業であったはずのアップルが1990年代前半に迷走していたのは完璧に経営者の責任ですが、マイクロソフトの場合はビル・ゲイツ会長という類い希な経営感覚を持つ指揮官の力でここまで発展してきたことは否めません。

しかしそのマイクロソフトもここまで巨大化したのはやはり1995年のWindows95の発売を成功させた結果というのが大きく、それまではビッグではあってもジャイアントではありませんでした。

そしていつどこからか誰も今まで知らなかったような会社が突然現れて、マイクロソフトの牙城を崩すかも知れません。ひょっとすると2010年頃にはマイクロソフトという名前を覚えている人すらいないかも知れない。

それがコンピュータ業界です。

しかしゲイツは自分の矢尽き刀折れるまでこの激しい戦場で戦い続けるのでしょう。

なお彼の相棒のポール・アレンは病気のため1983年にマイクロソフトの役員を辞しています(むろん大株主の一人ではあります)。彼はWindowsやMacintoshの元となったスターをはじめ、イーサーネット、ポストクスリプトなど現在のパソコン技術の基礎を生み出した1970年代のパロアルト研究所のようなすばらしい研究所を自分の手で創設したいと語っています。


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