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ヨハネパウロ2世(1920-)

1978年10月16日17時15分、ポーランド出身の Karol Josef Wojtyla がコンクラーベの結果新法王に選出されました。わずか33日間で亡くなったヨハネパウロ1世の後任を決めるもので、ヨハネパウロ2世と称します。(現法王)

前任者のヨハネパウロ1世は8月26日に選出されたもののこれから仕事を始めようという時、9月28日急死してしまいました。66歳でした。

その後任を決めるコンクラーベは全世界の80歳未満の枢機卿の投票により行われます。10月14日に行われた1回目のコンクラーベでは決定できず、16日、決選投票が行われて Wojtyla氏に決まりました。

ヨハネパウロ2世は1920年5月18日ポーランドのクラークフに生まれました。ごく普通に教育を受けて1938年Jagiellonian大学の文学部に進学。大学時代は演劇活動を行うとともにマリア会に参加していました。そんな中ドイツがポーランドに侵攻。第二次世界大戦が始まりました。Karolらは化学工場に徴用されて働いていましたが怪我をして数人の同級生らとともに入院します。その時、大司教のAdam Stefan Sapieha が彼らを大司教の居留地に疎開させました。

これが縁でこの疎開したメンバーの内数人が剃髪して神に奉仕する道を選びます。1946年10月に助祭に任命され、11月には司祭になります。そしてローマに留学、さらに聖職者としての勉強を重ねました。

1948年にはJagiellonian大学の神学修士の学位を取得。その後同大での学生の指導に携わる一方、Lublinのキリスト教大学でも教鞭を執ります。1960年クラークフの司教補に任じられ、1963年参事代理となって、度々ローマにも赴いて仕事をしています。

1966年クラークフ司教。そして1968年任枢機卿。(48歳)

その後も国内外で様々な活動を行い、また多数の論文を発表しています。

コンクラーベの結果が発表された時、サンピエトロ寺院の前に集まった群衆は最初「えー?外国人か?」と驚きと失望の声が半ばしますが、一人の中年女性がマイクを取り「みんな何を言ってるの?同じキリスト教徒でしょう?」というと、群集の声は歓喜の声に変わりました。

ヨハネ・パウロ2世の任法王後の活動は、ある意味でこの中年女性の声に象徴されるようなものでした。その活動はカトリックの長という領域を越えて、世界の平和のためのものでした。

その積極的な外交姿勢に対して1981年5月13日トルコ人アリ・アジャが法王を狙撃するという事件もありました。法王は4時間に及ぶ大手術の末回復。このような事件にはめげず、その後も更に積極的な活動を続けます。

この時、事件の黒幕としてブルガリヤ人の政府関係者が逮捕されますが裁判では無罪になっており、結局背後関係はよく分からないままでしたが、やはり東欧関係の諜報機関筋のしわざではないかとの噂は消えませんでした。

法王はその東欧の中核であるソ連にも色々な困難の末訪問を実現。唯物史観の観点からそれまで宗教を否定していた同国と歴史的な和解を実現します。その他の東欧各国、そして南米、更にはヒンズー教国のインドなどにも訪問して世界中の人々にメッセージを伝えました。

語学に堪能で、色々な国を訪問した時、必ずその国の言葉で国民に挨拶をしました。クリスマスのミサで51ヶ国語で「おめでとう」と言ったりしました。狙撃事件の時以外は1992年に腫瘍をわずらったほか大きな病気や怪我もせず、その活動は非常にエネルギッシュなものです。

そのほか1986年にはユダヤ教の教会をキリスト教史上初めて訪問、1993年にはイスラエルとバチカンの国交が樹立されます。またイギリス国教会とも1989年ロバート・ランシー・カンタベリー大司教との会談が実現。再統一を求める共同宣言を出します。

なお、日本には1981年2月に来訪しました。


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