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ペレスプラード(1916-1989)

実は「マンボ王ペレス・プラード」は二人います。これは兄の方です。

ペレス・プラードに関する各種のリソースはしばしば両者を混同していますので、彼らについて調べる時は気を付けておかねばなりません。

ペレス・プラード兄(Damaso Perez Prado)は1916年12月11日、キューバのマタンザスで生まれました。

はじめクラシックピアノを学びましたが、ポピュラーに転じ、キューバ国内の色々なバンドでピアノを弾くとともに、楽曲を提供するようになりました。

そのころキューバではルンバなどのリズムがはやっていましたが、プラードはこれにジャズの要素を加えた新しいリズムを作り出しました。しかしこの新しいリズムは国内では不評であったため、プラードは1948年メキシコに移り、そこで自分のバンドを結成しました。

このバンドでプラードは1949年 Que Rico el Mambo をヒットさせ、人気アーチストとしての地位を確立します。

その後アメリカに進出、1955年にはスタンダード・ナンバー「セレソローサ(ピンクのさくらんぼと白いリンゴの花)」のマンボ版を発表。この曲はアメリカのヒットチャートで26週連続チャートインの快挙を成し遂げました。

プラードは楽団を指揮しながら足を激しく動かしたり飛び上がったりして踊りまくり、例の「あーーーーーーー、うっ!」というかけ声をかけて、ダイナミックな動きをしました。当時の若い人たちの間のマンボの人気は凄まじく、ペルーの大司教が「マンボは神への罪だ」などという声明を発表するくらいでした。

そのように世間が賛否両論で激しく揺れる中、プラードは1958年メロディアスな曲「パトリシア」を発表。20週連続チャートインさせます。

しかし、彼がアメリカで人気だったのはここまで。その後「ロックンロールの国」アメリカ国内での人気は低落し、1960年代にはRCAレコードとの契約も切れてしまいます。プラードはメキシコに戻って、静かに音楽活動を続けますが、この頃からペレス・プラードとマンボの人気が高まったのは日本でした。

日本のマンボブームは1960年代後半から1970年代前半にピークがあったように私は記憶しています。「闘牛士のマンボ」などはずいぶんと街で流れていました。プラード自身も何度か来日しているように記憶しています。

彼の代表的なヒット曲には、今あげたもののほか、「マンボ・ジャンボ」「マンボNo.5」「マンボNo.8」、「運命マンボ」などがあります。

ペレス・プラードは1989年9月14日、メキシコシティーで亡くなりました。

なお、彼の弟 Pantaleon Perez Prado も1956年以降、同じペレス・プラードの名前で主にヨーロッパで活動しており、二人は「マンボ王」の元祖争いをしていました。弟のペレス・プラードは1983年12月4日に亡くなっています。

弟のペレスプラードが亡くなった時、日本の新聞は「マンボ王・死す」と記事を出し、翌日「誤りでした」の訂正記事を掲載しました。


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