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青の洞門完成?(1763)

★この文章は最後に大事な訂正があります。どうか、そこまで読んで下さい★ 

一部の文献によれば、宝暦13年(1763)の4月10日に、大分県耶馬渓(やばけい)の『青の洞門』が完成したとあります。

一般に知られている話としてはこうです。

 耶馬渓の山国川の樋田と青の間は、流れが早い上によく増水し、その側を通る道は、しばしば遭難者を出す難所でした。ある時また転落死した人が出た所に旅の僧が通りかかり、村人たちにお経をあげてくれるよう乞われます。僧は名前を禅海といい、元は武士でしたが過って人を殺してしまったことから仏道に入り諸国を行脚しながら衆生救済の道を模索していました。

 事情を聞いた禅海は遭難者の弔いを済ませると現場を見に行きます。そしてその時、ここにトンネルを掘って安全な道を作ろうという考えが浮かびました。それこそ自分が求めていた人々の救済の道なのではないかと思われたのです。禅海が岩を掘り出したのを見て最初は気でもおかしくなったかと思った村人たちでしたが少しずつトンネルが進行しているのを見ると、手伝ってくれる者なども出てくるようになりました。そして掘り出してから30年後、この185mもの「青の洞門」は完成し、村人たちは遭難を恐れずに山国川の側を通ることができるようになったのです。

この話を題材に菊池寛は大正10年『恩讐の彼方に』を書きました。また戦前の修身の教科書にも取り上げられ、全国的に有名になります。耶馬渓は大分県の山奥の風光明媚な地で、谷筋などにより耶馬渓・本耶馬渓・奥耶馬渓・深耶馬渓・裏耶馬渓などに分かれます。道路から離れた細い山道の奥に後藤又兵衛の墓などがひっそりとたたずんでいますし、回り奇岩だらけの一目八景には秋になると紅葉を見に大勢の人々が詰めかけてきたりします。

今少し『恩讐の彼方に』に沿って、禅海上人の足跡をたどってみましょう。

 安永 3年秋初め 江戸浅草。旗本中川三郎兵衛の家臣で、越後柏崎生まれの市九郎は、主人の寵妾お弓と通じたことが露見し成敗されそうになるが反射的に反撃して主人を殺してしまう。お弓は金を持ち出し二人は逐電。木曾路を逃げながら美人局・ゆすり等をやっていたが、やがて昼間は街道で茶店を出し、夜は切取強盗に変身するという生活に入る。

 3年目の春 追い剥ぎをしていて、若い夫婦者の旅人に顔を見られた為殺してしまうが、深い自己嫌悪の念にとられ、お弓の許から逃げて目についた寺に飛び込む。美濃大垣の浄願寺であった。浄願寺の住職は出家して今までの罪の償いをすることを勧め、了海の法名をもらって修行に励む。

 半年後   自分の道心が動かぬのを自覚し、師の許しをもらって諸国雲水の旅に出る。自分が旅人を襲っていたことから特に道中の人々の救済に心を砕き、道で苦しむ人あれば手を引き、病に苦しむ老幼を背負い、壊れた橋や崩れた道があれば普請を手伝った。

 享保 9年秋 九州に入り、宇佐八幡から山国川を遡って羅漢寺へ参ろうとした時、樋田で川に落ちて死んだ旅人を弔う。聞けばここで毎年10人ほどの人が命を落とすという。ここの岩盤を貫いて道を作れば年間10人、10年で100人、100年で千人の人が救えるではないかと、これこそ自分に与えられた仕事であると洞門作りの大発願をする。村人に嘲笑されながらも9年間で40mほど掘り、この辺りから手伝う者も出てくる。

 18年目の終り 洞門が半分まで完成。村人たちが本格的に支援し始める。

 19年目   中川三郎兵衛の遺児実之助(父が殺された時3歳)が敵を求め諸国を回っている内に(19の時に江戸を発ち9年目の春)ここを発見。了海はすすんで討たれようとするが石工たちが止める。石工の頭領がせめて大願成就の日まで待って欲しいという言葉に実之助も思いとどまる。そしてその日を少しでも早くしようと自分も手伝って掘り始める。が、掘っている内だんだん復讐の思いが薄れていく。

 21年目延享3年9月10日夜9つ頃 貫通。夜なので了海と実之助二人だけで掘っている時であった。二人は思わず手を取り合って喜びあう。そして了海は石工たちが来ない内に本懐をと言うが、実之助は再びこの老僧の手を取ってただ感激の涙にむせびあっていた。

小学校の頃以来、何度読んでも感動して涙の出てきた話です。しかしこれはあくまで創作。僧の名前も一応「了海」という架空のものになっています。で、どこまでが史実で、どこからが菊池寛の創作なのかが調べてみたのですが実はよく分かりません。この洞門を作るのにかかった年数も資料によって16年とあったり30年とあったりしますし、この小説ではごらんのとおり21年です。

色々と調べてみるととにかく確実に史実と思われるのは次のようなことでした。

 貞享3年(1686)中津藩主小笠原長胤は荒瀬井路の水利工事に着手した。多大な労力と費用を費やし、元禄2年(1689)通水にこぎつける。この前後8年かけて多数の分水路も作られ、この堰によって2701戸の農家・1136町の水田が恩恵を受けることになった。

 ところがこの長胤が邪臣の奸計により失脚、関連工事が途中で止まったまま放置されることになってしまった為、山国川の青付近の河原が水没したままになってしまい、交通の難所となってしまった。ここで享保20年(1735,一説には享保19年)禅海上人がここに道を作ることを大発願。16年(一説では30年)の歳月をかけて、長さ342m、トンネル部分の長さの合計144mという「青の洞門」が完成した。

最初に書いた1763年に完成という説に従えば、この道を作るのにかかった年数は28年ということになります。上記から年代を抜き出してみましょう。

 安永 3年秋 江戸浅草。出奔。享保 9年秋 上記から3年以上後。発願。19年目   出奔の時3歳だった実之助が28歳。21年目延享3年9月10日夜9つ頃 貫通。

出奔から発願までの年数は明記されていませんが、実之助の年齢から計算すると、出奔は発願の6年前という計算になります。

さてここで実は、延享3年は1746年、享保9年は1724年。その間は22年ですからピッタリあっていますが、安永3年は困ったことに1774年です。享保9年の6年前は当然享保3年です。安永3年は宝永3年(1706)の誤りとも考えられますが、やはりここは享保3年の誤りと考えた方がよいでしょう。

禅海上人の年齢は分かりませんが、主人の妾に手を出すなどということをしたことを考え、出家に至るのをサターンリターン!?で(数えの)31歳と仮定しますと、次のような年表が作れます。

        禅海             中川元禄 4年(1691)  1 誕生享保元年(1716) 26               1 誕生享保 3年(1718) 28 主人を殺し出奔       3 父が殺される享保 6年(1721) 31 出家して衆生救済の旅へ   6 享保 9年(1724) 34 発願            9 享保13年(1728) 38              13 復讐を誓う享保18年(1733) 43 村人手伝うがすぐGiveUp  18 享保19年(1734) 44              19 剣術免許皆伝。旅立ち。元文 2年(1737) 47 村人又手伝うが又GiveUp  22 寛保元年(1741) 51 村人本格的支援開始    26 延享元年(1744) 54 実之助と会う       29 禅海と会い一緒に掘り出す延享 3年(1746) 56 洞門貫通         31 洞門貫通

中川実之助もサターンリターンの時に洞門が開通したという、何ともできすぎた年表になっております m(_ _)m

耶馬渓は私の母と祖父(正確には母の伯父)が戦時中疎開していた所です。当時住んでいたのは中津で汽車をおりて、半日ほど歩いた所だったそうです。その時以前ちょと書いた、祖父が道で自分に化けた狐とすれちがったなどといったこともありました。幼くして死んだ母の妹の眠る所でもあります。

暗い思い出の多い所ゆえに母も避けていたようですが、戦後35年ほどたったある時、家族みんなで訪れてみました。当時の川沿いの道の代わりに山の上にきれいな舗装道路ができており、全てが変わってしまっていて住んでいた所がどのあたりかというのも分からないようでしたが、子供の頃よく遊んだ神社はしっかりと昔のままの姿だったようです。

禅海上人の作った青の洞門は今も残っています。もっとも普通の道路はその青の洞門よりも内側に新しく通されており、洞門の方は遊歩道のように川沿いを貫いています。2度ほど歩いてみたことがあります。禅海上人が初期の頃寝泊まりしていた羅漢寺は険しい山の上にあります。一般の方はスキー場にあるような感じのリフトが運行されていますので、それを利用するのがよいでしょう。一応歩いて登る道もありますが、ハイヒールや普通の革靴、又タイトスカート等での通行はお勧めできません。ズック靴かトレッキングシューズ、ジーンズに長袖シャツ程度の装備は必要です。

=====================================================================以上の文章は97年4月に書いたものですが、その後重大な問題が分かりました。2点修正したいと思います。

■禅海上人は殺人者ではない

これは菊池寛が話の演出で組み込んだものであり、禅海上人はそういう人 ではありません。出身地も柏崎できなく、越後は越後ですが高田だそうで す。彼は両親に死別したことから世の無常を感じ、僧になりました。諸国 を行脚する内に、山国川に落ちて人が亡くなった所にちょうど行き会い、 その時ここにトンネルを掘ることを思い立ちました。

■村人はもっと協力的であった

村人たちは、この大事業が可能だと確信した時点でかなり協力的になった ようです。

禅海上人は当初は自分で掘っていましたが、1〜2年もする内にその熱意 にほだされた村人たちが協力をはじめました。そして、人手が増えてくる と禅海上人自身はどちらかというと作業には足手まといになるので、托鉢 に回り、集まったお金で石工を雇って作業を進めさせました。

その禅海上人は上記でも触れた羅漢寺に埋葬されています。近年この禅海 上人が残した文書が発見され、色々分かったことなどもあるようです。

羅漢寺は山の上の寺です。歩いて登ろうとすると、かなり険しい道を歩くこ とになりますが(殆ど登山)、幸いにもリフトがあります。これはスキー場の リフトのような簡易なものですが、お陰で楽をすることができます。

羅漢寺は大化元年の開基。1350年の歴史のある古刹です。

開いたのはインド僧の法道で、金銅の観音仏一体を安置。その後山岳宗教の 拠点として多くの修行者たちがここで活動しました。1337年に円龕照覚禅師 が16羅漢,500羅漢像を安置して、羅漢寺という名前に改め臨済宗になります。 その後1600年に曹洞宗に変わって現在に至ります。


(1999-04-09)

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