↑

鍵屋の辻の決闘(1634)

寛永11年(1634)伊賀上野の「鍵屋の辻」で、荒木又右衛門の<36人斬り>で知られる、仇討ちが行われました。

発端は4年前に遡ります。

江戸時代の殿様というものは、その気になればいくらでも側室を抱えることができましたが、それで多数の子供ができてしまうと、その子供をあちこちに養子として押しつけるのに、非常に苦労するという問題がありました。

そのため、しばしば子供のできる心配のない相手、つまり美少年をセックスの処理のために侍らせていたと言われます。こういう美少年はまだ髪上げをしておらず、一人前の男ではないということから、女性と同じ扱いという解釈になり、これは同性愛ではない、という意識が双方にあったとのことです。

そういう訳で、時の岡山藩主・池田忠雄(ただかつ)にも渡辺源太夫という寵童がいたのですが、この源太夫に、同藩の藩士・河合又五郎が横恋慕します。そして源太夫に関係を迫ったものの源太夫は冷たく拒否。それに逆上した又五郎はこれを殺害してしまいました。寛永7年7月のことでした。

殺害してみると、これは大変なことをしたという思いがこみ上げてきます。又五郎は藩を出奔。江戸に逃れて、ある旗本家にかくまわれました。そのことを知った藩主・池田忠雄は幕府を通して、河合又五郎の身柄の引き渡しを要請するのですが、この肝心の忠雄が突然亡くなってしまいました。

ここで困ったのが、源太夫の兄の渡辺数馬です。当時の武士社会のルールとしては、弟の仇を討たない限り、岡山藩に出仕しつづけることができないことになってしまいました。しかし数馬は武士とはいっても、剣に全く自信がありません。そこで彼は姉の夫である剣豪・荒木又右衛門に助けを求めたのです。

荒木又右衛門は1598年あるいは1599年、伊賀上野の生まれ。幼名は菊水丑之助で、成人後、郡山藩で250石を取って剣術を教えていました。愛刀は来伊賀守金道という名刀ですが、この鍵屋の辻の決闘でそれを折ってしまっています。又右衛門は数馬から助けを求められると郡山藩を辞して、河合又五郎の行方を探して一緒に江戸から東海道を訪ね歩きます。そして、やがて彼らがこの日の朝上野に来るという情報をつかんだのです。

この時、河合又五郎は奈良の隠れ家から江戸方面に移動しようとしていました。又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南(つまり又右衛門の元同僚)の河合甚左衛門、又五郎の妹婿であり槍の名人の桜井半兵衛など10人ほどの一行であるという情報が入っていました。荒木又右衛門は弟子の岩本孫右衛門・河合武右衛門を連れ、渡辺数馬とあわせて4人でこの一行を待ち伏せしました。

荒木又右衛門も元郡山藩剣術指南として河合甚左衛門の腕のすごさは熟知しています。そこで綿密に作戦を立てた上で、このような行動に出ます。

又右衛門はまず最大の強敵である河合甚左衛門めがけて突き進みます。一方門弟の二人が、一人は桜井半兵衛に、もう一人がその槍持ちに当たり、槍持ちを斬って、槍が半兵衛の手に渡らないようにします。そして渡辺数馬は、河合又五郎ただ一人に集中します。

作戦は見事成功しました。荒木又右衛門は河合甚左衛門が馬の上にいるところを狙って足を切り、落馬した所を一発。相手の機先を制して速攻で仕留めました。門弟二人も無事槍持ちを倒し、桜井半兵衛と刀で勝負しているところに、又右衛門がかけつけて、これを倒しました。なお、このとき河合武右衛門は斬られて命を落としています。

この頃には一行の他の面々は戦うどころか全員逃げ出しておりました。つまり、荒木又右衛門が36人も斬りたくても、そこにはそんな人数はいなかったことになります。

最後は渡辺数馬と河合又五郎の勝負ですが、これは又右衛門も助ける訳にはいかないので、本人たちに任せておりました。しかしどちらも真剣での勝負の経験がなく、ひたすら動き回るのみで、戦いは延々5時間にも及びました。

そして昼過ぎ、やっとのことで数馬の刀が又五郎の腕に当たり、傷を負わせました。しかし二人とももう疲れ切って、ダウン寸前です。そこでラチがあかないので、もうこの傷でいいことにし、又右衛門が数馬を抱きかかえて又五郎の胸に刀を突き刺しました。

最初の事件が起きてから、この鍵屋の辻で仇討ちで成就するまでの間に、池田藩は鳥取にお国変えになっていました。そこで、渡辺数馬は荒木又右衛門ともども鳥取に行って新藩主に報告。5年後に復職がかないました。

ところが、その復職のわずか16日後、寛永16年8月28日。鳥取藩はなんと「荒木又右衛門の死亡を発表」しました。これに関する詳細はいっさい明らかになっておらず、色々な憶測が飛んでいるようです。

一説では、又右衛門はどこか別の所、多分元の郡山に戻ったのだが、郡山に戻るための公式のうまい口実がないので、死んだことにして身柄を自由にしてあげたのではないか、ともいいます。

(1999-11-06)


※荒木又右衛門の死去は寛永20年9月24日という説があるようです。それが本当なら、やはり寛永16年の「死亡」は鳥取藩からの除籍のようなものなのかも知れません。(2005-12-31)


↑ Dropped down from 今日は何の日.

(C)copyright ffortune.net 1995-2013 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから