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め組の喧嘩(1805)

一説によると文化2年(1805)の1月11日、江戸は芝明神社でめ組と相撲取りとの大喧嘩があり、36人(13名との説も)もの逮捕者を出す大騒ぎとなりました。

この時の喧嘩の当事者のひとり、め組の辰五郎は現代の時代劇にも名を残しています。

この喧嘩の時期については資料によりばらつきがあり、文化2年とするものと文化元年とするもの、更には寛政年間との説もあるようですが、文化2年とするものが大半なので年はこれで間違いないと思います。月日のほうが実は正月説(1.11)と二月説(2.16)に分かれています。しかしだいたい文化2年の1月か2月にこの喧嘩が起きたようです。

事の顛末を、種々の説の中から信頼できそうな部分を拾い出してたどると次のようなことであったようです。

この年の春、芝明神社で開かれていた勧進相撲に、火消しのめ組の鳶職人たちが見物にやってきました。火消しは木戸御免の特権を持っています。ところが一行の中に火消しではない者が混じっていました。それを見とがめた力士のひとりが、火消し以外はちゃんと木戸銭を払えといい、それに対してめ組の富士松が堅いこと言うなと応じ、小競り合いになります。しかしその場はめ組側が引いて事はおさまりました。

相撲を見そこねてやや怒りがくすぶっていた富士松らが今度は芝居の見物をしていますと、そこに柏戸部屋の九竜山が芝居を見に来ていたため、さっきのことへの意趣返しで富士松が九頭竜に絡んで蹴り付け、富士松の同僚の辰五郎や九頭竜の同僚の藤の戸も巻き込んで、完璧に喧嘩になります。しかしここは今度は九頭竜たちが引いて、一応収まりました。

しかしその話を九頭竜たちから聞いた四つ車が「それでおまえらオメオメと引き下がってきたのか」とけしかけたため、力士たちが火消したちを追いかけて、神社境内で三度目のとうとう本格的な大喧嘩が始まってしまいました。

事態に驚いた火消しの長治郎は火の見櫓に昇って半鐘を叩きます。するとそれを聞いて大勢の火消したちが集結、更には話を聞いた力士たちも集まってきてとんでもない騒ぎになってしまいました。力士の中には抜刀する者もあり多数の怪我人が出て、喧嘩は一説によると四時間近くも続いたといいますが、最後は(寺社奉行配下では手に負えず?)南町奉行所の与力・同心たちが出動して喧嘩していたものたちを全員縛り上げて、喧嘩を収めました。一番の張本人の富士松はこの時の怪我がもとで3日後に亡くなりました。

この問題の裁きについて普通ならタダでは済まないところですが、当時の南町奉行・根岸肥前守鎮衛は芝明神の半鐘がかってに鳴り出したのが喧嘩の原因であると断罪、この半鐘に遠島を申しつけるという粋な計らいをして、関係者に寛大な処分をしました。結局九頭竜・辰五郎・長治郎の3人が江戸払いになっただけで、ほか(170人ほど)は過料とお叱りだけで済んでいます。この遠島にされていた半鐘は明治になってから、お許しが出て(?)芝明神に帰ってきています。

なおこの事件を題材にしたお芝居では、この事件に先立って両者が品川の島崎楼でも衝突していたということにしています。


(2004-01-10)

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