↑

高田馬場の決闘(1694)

元禄7年(1694)2月11日講談などの「ひた走る堀部安兵衛」の下りで有名な高田馬場の決闘が行われました。(7日説あり)

ただし当時はまだ中山安兵衛の時代です。安兵衛は寛文10年(1670)の生まれで、父の中山弥次右衛門は新発田藩の家臣でしたが、お役目中に失火があり責任をとって浪人しています。19歳の時に中山家の再興を夢見て江戸に出て剣術の修行をしていましたが、その時に同門で愛媛藩士の菅野六郎左衛門と意気投合。叔父・甥の契りを結びました。

その菅野がある時、村上庄左衛門と藩主の前で御前試合をして辛くも勝ったのですが、村上はそのことを遺恨に思い「あの時の勝負は自分でも納得がいかない。今度は命を賭けて決闘をしたい」と申し入れますが、その実、仲間を数人連れていき、菅野をだまし討ちにしようと考えていました。

しかし菅野がその果たし状を見たのは当日の朝でした。菅野を慌てさせる為に直前に投げ文をしたのです。しかし決闘に遅れては武士の恥とすぐに行こうとしますが、あるいはこれで命を落とすかも知れないと考え、中山安兵衛の家に寄って別れを言って行こうと思います。

ところがその当の安兵衛は元々かなりの酒豪でその日も前の晩から飲んで、別の場所で酔いつぶれて眠っていて留守でした。そこで仕方なく菅野はその場で文を書いて残していきます。

さてお日様がかなり高くなってからやっと起きて家に戻った安兵衛は、家に戻って菅野六郎左衛門の文を読み、びっくりします。昔のことですから時計があるわけではありませんが、もう果たし合いの刻限は目前と思われました。

そこで、ここから安兵衛は走って、走って、走って、高田馬場まで行くわけです。

そして高田馬場に行ってみますと、果たし合いはもう始まっていましたが、見ると菅野ひとりに対して、向こうは何人もいて苦戦しています。これはいかんと安兵衛はただちに刀を抜いて、助太刀に入り、これで戦況は逆転。村上庄左衛門らは不利と見て逃げ出してしまいました。

この付近、講談では菅野は既に致命傷を負っていて、安兵衛が相手を十六人斬りするなどとなってしまうのですが、後の赤穂での扱われ方などから安兵衛がそれほどの剣の達人であったとは思えないとする考証もあるようです。

この決闘を見ていたのが堀部弥兵衛で、彼は安兵衛にぜひ自分の養子になって欲しいと彼をスカウト。「中山」の名前をそのまま使ってもいいから、とまで言う弥兵衛の熱意にほだされて、彼は堀部の家に養子に入ることになり、赤穂家の家臣となります。

そしてその7年後、松の廊下での刃傷事件が起き、彼は忠臣蔵の義士たちの中でも仇討ち派急先鋒として、江戸の浪士グループの中心的存在となります。

確かに安兵衛が以前十六人斬りなどやらかしていたとしたら、その彼が江戸にいれば、ものすごく警戒されたはずですから、実際の赤穂浪士事件の展開での彼の働きを見れば、やはり高田馬場での決闘というのは、あまり大騒ぎするほどの出来事ではなく短時間で終結するようなものだったのかも知れません。また地方ならまだしも江戸市中で何人もの侍が刀を抜いて大立ち回りをしたりしたら、双方評定所から呼び出されて、きつい処分があった筈です。


↑ Dropped down from 今日は何の日.

(C)copyright ffortune.net 1995-2013 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから