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吉原移転(1656)

明暦2年(1656)12月24日、幕府は吉原の遊郭を浅草三谷村(浅草寺裏手)に移転させました。

江戸の遊郭は1600年に徳川幕府が開かれた頃から自然に成立してきました。

江戸は家康から家光の頃に掛けて、川の流れを変えたり堀を作ったり、非常に多くの土木工事を行っていますが、このために地方から出てきた多くの男手が使用されました。そして、その男たちを当て込んで、遊郭も多数作られたのです。

しかし遊郭が町の至る所にあるのは風紀上必ずしも好ましいものではありませんでした。

そこで、元和3年(1617)3月、これらの遊郭が一ヶ所に集められることになり、庄司甚右衛門が中心になって日本橋の葦原町(現在の人形町付近と推定されている)に、大遊郭地帯が作られたのです。

この場所は葦(「あし」だが、縁起をかついで「よし」という)がたくさん生えている湿っぽい野原でしたので、そこからこの場所を「吉原」と呼びました。

ところが、この吉原が明暦2年(1656)10月17日、江戸の大火で焼けてしまいます。(振袖火事の前年だが、これも48町を焼く大きな火事)

そこで、新しい場所に移転して再建することになり、浅草に移ることが決まったのが、同年12月24日でした。この移転にために幕府は19000両(今のお金にして19億円くらい)という大金を支給しています。江戸にとって絶対的な必需品だったということでしょう。

この新しい場所も今まで同様「吉原」と呼ばれ、区別する場合、こちらを「新吉原」、以前あった場所を「元吉原」と呼びます。そしてこの「新吉原」の遊郭は昭和31年(1956)の売春防止法成立まで、ちょうど300年間継続します。

(ちなみに現在は、ご存じの通りソープ街になっていて、実態はあまり変わっていないような...)

吉原の初期の遊女たちは、ある意味では今の銀座のホステスのような存在で、客を楽しませるための話術、それを裏打ちする豊富な知識、更には上流階級の人々と交際するための和歌・茶道・書道・絵画、などのたしなみを身につけていました。その中でも特に優秀な人は花魁、さらには太夫と呼ばれます。

太夫というのは、ほんとにすごいハイレベルの花魁のみに許される称号で、江戸の250年間の間にもこの称号を持つ花魁は20〜30人しか出ていません。特に江戸後期は出ることが稀になっていきます。当然このクラスと遊ぶには、超高額な投資が必要であったはずです。

江戸時代も基本的には売春行為はこの吉原でしかやってはいけないことになっていたのですが、江戸後期には、どうしても高くつく吉原に対して、もっと安価に提供する「岡場所」という、いわばもぐりの遊郭も登場します。また、それ以外にも、水茶屋の女、銭湯の湯女(ゆな)、などが性の提供をし、もっと安く済ませたい向きには路上で勧誘する夜鷹、などというものも出没していました。

もっとも、こういうものは基本的には安いところになればなるほど、レベルも下がっていて、夜鷹までいくと、当時の夜ですから、顔が見えない方がいい(相当の高齢や病気など)というケースが多かったとも言われます。

吉原で1日に動いていたお金は現在のお金に直して1億円くらいであろうと言われています。

そこでは優秀な遊女がわりといい暮らしが出来ていたのに対し、成績の悪い下級女郎は虐げられ、厳しい労働環境の中で無理矢理働かせられ、かといって女郎をやめる自由もなく、死ぬと投げ込み寺に放り込まれて終わりという悲しい人生でした。

その報われない女性たちの霊は、今も吉原弁財天/吉原神社、浄閑寺、西方寺、などの地に眠っています。

合掌。


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