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空海が長安到着(804)

延暦23年12月23日、遣唐使として中国に渡った空海が中国の長安の都に到着しました。

思わぬ長い道のりでした。

一行が九州を発ったのは7月6日のことです。順調に行けば数日で中国に到着するのですが、あいにく暴風雨が来ます。そしてこのため4艘で仕立てた遣唐使船の内、第3船と第4船は沈んでしまいました。

この時、第1船に空海、第2船に最澄が乗っていました。日本の宗派仏教の元祖ともいうべき、このビッグ2は幸運にも難を逃れました。

船は暴風雨の後遺症で漂流。1ヶ月もかけて、中国南部に流れ着きました。

現地ではそんな場所に遣唐使が来たことがなかったので、本物かどうかもめます。やっと向こうの係官を納得させ、それから陸路で長安まで行くことになります。そして日本を発ってから5ヶ月もの日数をかけて、やっと目的地にたどりついたのでした。

長安についた最澄は、天台山で教義を学び経典の書写をさせて、1年ほどで帰国。彼は唐に行く前に比叡山に延暦寺を開いていました。帰国後もここを拠点として天台の修行システムを整備していきます。

また空海は梵語を初めとする色々な予備知識をしっかり作った上で真言密教の大家・恵果を訪ね、その奥義を体得。その後継者の一人となって3年後日本に帰国。大量の経典・仏具を日本にもたらしました。彼は国費留学生の最澄と異なり、一般の私費留学生でしたが、最澄の引き立てもあって天皇に認められ、京都に東寺、そしてやがて高野山に金剛峰寺を建てました。

その後、比叡山に学んだ僧の中から、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮など、また徳川家康の参謀・天海などが出ています。ここは僧の学校として長く機能してきました。

一方の高野山に学んだ遊行僧たちは高野聖と呼ばれ、全国の庶民に仏教を広める役目を果たしました。

(ただし高野聖にも悪質なのもいて「ごまのはい(護摩の灰)」と呼ぶ。『これは弘法大師が焚いた護摩の灰だ』とか言って出自不明の灰を高く売りつけたりしていたからである)


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