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永平寺建立(1245)

寛元3年(1245)7月18日、道元禅師が福井に永平寺(当時の名前は大仏寺)を建立しました。それ以降750年間、ここは曹洞宗の大本山であり第一道場として、全国から多くの修行僧が集まって来ています。

道元は正治2年(1200)1月2日、京都の久我庄で生まれました。母は摂政関白藤原(松殿)基房の娘です。3歳で父を8歳で母を失い世の無常を感じて14歳の時比叡山に上り出家。しかし比叡山では自分の求める物の答えは得られないとして1年後下山、三井寺に行きますがやはり駄目でした。しかしこの時の師公胤が、臨済宗を開いた栄西を訪ねてみてはどうかと勧めます。関心を持った道元ですが、栄西が間もなく亡くなってしまった為、結局3年後栄西の弟子の明全の弟子になり、間もなく禅の奥義を極めたとして許状をもらいます。

こうして道元は禅にふれた訳ですが、明全から禅の奥義を極めたと言われてもまだ彼の疑問は解消されていませんでした。明全が中国に留学することになった時、彼も一緒に連れて行ってもらいます。24歳の時でした。

しかし当時の中国の仏教界は著しく堕落しており、道元は大きな失望を感じます。もう帰国しようかと思っていた時、たまたま出会った旅の僧が「一度如浄に会ってみるとよい」と言ったのを聞き天童山に赴きます。そして如浄の目を見た瞬間、彼はこれぞ自分の真の師であると直観しました。そのとき同時に如浄もこの26歳の青年を類希な大器と見抜きました。そして、会ったばかりであるというのに彼に印可を与えてしまうのです。

そして道元は如浄のもとで2年間修行を積みますが、ある時「身心脱落」という境地を体験します。(この時如浄は「身塵脱落」と言ったのを道元が聞き違え、結果的にもっとすごい境地を見ることになったという)これは後に道元の中心思想の一つになります。

道元を連れて中国に渡った明全禅師は中国の地で倒れ帰らぬ人になりました。彼は単身帰国してまずは京都の建仁寺に入ります。そして幾つかの寺を渡り歩いた末、34歳で興聖寺を建て、ここで座禅を中心とした仏教の伝道を開始します。ここに道元は10年間住み、多くの人々を教化しましたが、自然と、既存仏教と対立することになり、興聖寺は焼き討ちにあってしまいます。このとき信者の一人波多野義重が越前の自分の領地を寄進するので来ないかと誘います。越州となれば自分の師如浄の出身地と同じ名前。感激した道元は越前に移り、最初幾つかの古寺に住まいした後、永平寺を建立したものです。

道元は永平寺で10年間弟子の指導と一般の人たちの教化に心血を注いだあと、建長5年8月28日、54歳で入寂しました。

曹洞宗では、日本で曹洞宗を興し永平寺を開いた道元を高祖、そのあと曹洞宗の普及に努め総持寺を開いた瑩山を太祖と称しています。そして永平寺と総持寺を大本山とし、両山の貫首が交替で宗派代表を務めています。曹洞宗は他の多くの仏教宗派と異なりこの2大本山を中心として単一の宗教団体になっており、単一の宗教団体としては恐らく日本最大の規模のものになっています。

(曹洞宗は瑩山が普及させたものなので、実際の曹洞宗の寺は総持寺系が圧倒的に多い。なお総持寺は元々は北陸能登にあったが、明治時代に火事で焼けたあと再建がなかなか進まなかったため、現在は神奈川県横浜市に移転している。能登の方は祖院となっている。)


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