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暁に祈る

昭和24年の3月27日、ウランバートルのソ連収容所で日本人捕虜を虐待して多数の死者を出したとして、捕虜の隊長・吉村久佳(本名池田重善)氏が告発されました。

元捕虜の証言などから有罪となり、懲役3年の刑が確定しますが、吉村氏は刑期を終えた後も何度も冤罪を主張するという不透明さの残る事件となりました。

昭和20年8月に戦争が終わった後、中国大陸にいた日本人たちは一部は朝鮮半島経由などで帰国しましたが、一部はソ連軍につかまり捕虜とされて、モンゴルやシベリヤ各地で過酷な強制労働をさせられました。

その中でこの悲劇も起きました。

当初捕虜たちは2つのグループに分けられ、一方を長谷川大尉がとりまとめ、一方を吉村曹長がとりまとめていました。本来なら曹長程度の階級の者が隊長に任命されることが異常だったのですが、混乱の中ゆえのできごとだったのでしょうか。捕虜たちの中には階級の低い者の下に付かなければならなくなったことへの反感がかなりあったと言われます。

やがて長谷川隊長は捕虜たちに甘すぎるとして更迭され、捕虜は吉村隊に合併されました。ここでまた吉村の立場はソ連側に対しても妥協の許されない厳しいものとなり、部下たちが見る目も長谷川との比較上厳しくなったようです。

吉村はノルマをきちんと達成しないとソ連側から何をされるか分からないという恐怖めいた気持ちにつかれ、部下たちに厳しく当たります。

それでなくても過酷な労働をしている中でそれは時折行き過ぎになり、ノルマを達しなかった隊員を零下何十度にもなる戸外に数時間放置する(この罰が隊員たちの間で「暁に祈る」と呼ばれました)といったこともやりました。

このモンゴル抑留期間の日本人捕虜の死者は全部で2000人〜3000人といわれますが、この吉村隊の死者も30人〜200人ほどであったといわれます。この数字の幅の大きさは、南方で起きた人肉食事件などと同様、関係者が口をつぐんでしまうことと、そもそも記録もあまりまともにとられていなかったようであることなどから、結局このまま歴史に残されることになりそうです。

この吉村隊はウランバートルの首都建設にかり出されており、とりわけ厳しい労働が課せられていたようです。危険な石切場での作業もあり、特に死傷者が多かったようで、隊長に対する反感の高い隊員たちの目には時々課せられる隊長の厳しい罰と目の前の死体が結びつき「隊長に虐殺された」という印象がかなり残ったようです。

実際に戸外放置の罰を受けている時に死んでしまった捕虜もいたかも知れませんが、それが本当にいたのか。いたとしたら何人なのかは、もう戦後50年たった今は永久に追求不可能かも知れません。

なお、「吉村」という偽名を名乗ったのは、身分が分かるとそれだけ厳しい取り扱いを受けるかも知れないということからだったようで、そういう人は当時多かったようです。

吉村氏は出所後は故郷の長崎県五島で行商などで生計を立てながら無罪を主張していました。それを受けて弁護士やジャーナリストなどからなる調査団が事件を再調査、やはり無実ではないかという報告を1988年まとめましたが、再審請求をする間もなくその年9月11日に亡くなりました。

彼もまた戦争が産みだした大きな歪みの犠牲者だったのでしょうか。


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