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八甲田山死の行軍(1902)

明治35年(1902)1月23日、日本陸軍第8師団青森歩兵第5連隊と弘前の第31連隊が冬の八甲田山を踏破する行軍訓練に出発しました。

陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取りたく思っていました。当時連隊の責任者は陸軍の幹部の所に直々に呼び出され「どうだ、やれるとか思うか?」と聞かれたいいます。

しかし直属の上司ならまだしも、遙か上位の幹部から「やれると思うか?」と聞かれたら、それは命令に等しいものでした。責任者は「はい、やれると思います」と答え、この無謀な訓練はスタートしてしまいました。

両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始めました。しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ(1月25日旭川で史上最低気温を観測している)、すさまじい吹雪にあい、弘前第31連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができましたが、青森第5連隊のほうは道に迷ってしまいました。

この事故は新田次郎「八甲田山死の彷徨」で知られます。

第5連隊のこの作戦参加者は210名。本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのですが、冬山で迷ってしまうと、ルートを見つけだすのは困難を極めます。1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回るのですが先行きは絶望的でした。だんだん遅れるものが出てきて、翌25日には30名ほどまで減ってしまっていました。

救援隊が組織されていましたが、捜索も困難を極めました。

やがて第5連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になっているのが発見されました。

軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見にいたります。(なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった)

しかし発見された時生きていたのはわずかに17名でした。

しかもその内5名が救出後死亡。1名の将校は責任を感じて自決。結局わずか11名の生還となりました。

死者199名。日露戦争の203高地でもここまで生還率は低くありませんでした。

現在後藤伍長が道しるべになったい地に慰霊碑が建っています。

なお、この同じ八甲田山では1997年7月12日自衛隊の訓練中に隊員が3名死亡する事故が起きています。これは寒さではなく火山ガスによるものです。山はいつも厳しい存在です。

----------------------2005.05.23 修正(後藤伍長はそこで死亡していたのではなく生還した)


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