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警視庁創設(1874)

明治7年1月15日、警察制度の改正に伴い東京警視庁が設置され、川路利良が初代の大警視(現在の警視総監に相当する)に就任しました。

話を始める前に日本の現在の警察制度をよくご存じない方のために簡単に解説しておきましょう。日本の現在の警察制度はアメリカの方式がベースになっており、各都道府県は各々で警察機構を維持していて、その中核が都道府県の警察本部です。これが神奈川県警・京都府警・北海道警などなどですが東京だけは特別な名称「警視庁」を使用しています。かつては大阪府警も大阪警視庁を一時的に名乗っていたのですが、警視庁の名前は東京だけで使いたいという政府指導により大阪府警に改称しました。これらの各都道府県の警察本部を統轄するのが警察庁です。

ただ各都道府県の警察本部が独自に運用されていると、県境にまたがった犯罪が起きた時に、手柄争いや縄張り意識などがでて、良くないことが容易に予想されます。実際アメリカではこれにかなり苦労しています。そこで日本では、警察組織の中で警視正以上は国家公務員となっており県警本部の境界を越えて警察庁の指導のもと連携して行動しやすいようになっています。つまり警察官は最初は地方公務員ですが、出世して警視から警視正に昇進すると突然身分が国家公務員に変わるのです。この不思議な制度を作ったのは後藤田正晴です。

さて明治維新をおこなった新政府は、国内の治安維持のための新制度を早急に整備する必要に迫られていました。江戸時代には江戸・大坂などには町奉行所が、長崎や山田など一部の地区に遠国奉行が、そして一般の天領には代官所が置かれ犯罪捜査や争いの仲裁などに当たっていました。

ただ江戸などでは奉行所の役人だけではとても治安の維持は不可能なので各町内で有力者が交替で詰所に出て町民の訴えを聞く「自身番」を設置して自衛組織を作ります。各藩の場合は制度は様々であったようですが、だいたい藩の役人と村々の自治組織との組み合わせで治安を守るという体制は似たようなものであったようです。

明治政府もだいたいそれまでの方式を踏襲することにし、はじめ「番人制度」というものが設けられます。これはまさに自治組織で、その地区の住民の出資金により運用されます。そしてそれを統括する組織として国は各県に警保寮を設置して、ここに中央からひとりずつ大警視を派遣しました。

ところがこの制度はあっという間に行き詰まります。原因は明白で、そういう組織を運営するだけの資金が集まらなかったためです。そのためどこの地区でも番人の定数は半分も充足できず、その活動資金も確保できませんでした。

当時の実力者である西郷隆盛や大久保利通は司法省警保助の川路利良を1年間ヨーロッパに派遣し欧州の警察制度を詳しく視察させ、その結果にもとづいて新しい警察制度を導入することにしました。川路が特に参考にしたのはフランスとイギリスの警察制度で、主としてフランスの警察(中央集権的な警察組織と各県の自治警察兼憲兵−ジョンダルム−巡査の語源??−が並立している)が日本の現状に合っていると思われました。

そこでまずは東京にそのモデルを作ることにし、それに先だって司法と警察を分離しなければ、公正な捜査と裁判はできないとしてそれまで司法省が管轄していた警察を内務省の管轄に移動させた上で、明治7年1月15日、東京警視庁を設置して、川路自身にその長として近代的な警察制度の浸透のための努力をさせることにしました。

川路はそれまで各自治体で設置していたような民営の「番人」では、私情での行動や捜査・予断などが避けられないとして、警察官は公務員でなければならないとして番人制度を批判し、東京都内の准警吏(地方の番人に相当する)を廃止し羅卒に一本化するとともにこれを巡査と改称して国費で給与を支払うようにしました。更には巡査の身分を証明する警察手帳を発行して、捜査の際の提示を義務づけるとともに、署長間の連絡会議を作って警察全体の一体性を確保。また町中に多数の交番を設置して、人々の生活に密着した警察を目指しました。彼が作った警察のモデルは現在にまで受け継がれています。

当時の東京の警察官は、江戸時代の同心に相当するものとして巡査がおり、その下に江戸時代の岡っ引きに相当する探索が配属されていました。この探索が捜査の最前線にいる訳ですが捜査の最前線にいるとどうしても予断や想像が捜査に入ってしまいがちです。そこで川路は「巡査は探索の言う事を鵜呑みにするな」などという訓辞も出しています。

川路は「容疑者がクロであるという物証を必死で探すのと同時に、その人がシロであるという物証も徹底的に探せ」とも言っており、それまでの勘に頼る捜査を否定し、ヨーロッパで彼が見てきた新しい合理的な捜査スタイルをここに持ち込もうと努力しました。彼は「声無きに聞き、形無きに見よ」とも言っており表面的な状況に惑わされず、隠された真実を明らかにする努力を警察官に求めています。

川路はまた警察は民衆を助けるものであるべきだと言っています。本当は住民は自分の安全は自分で守るべきものである。ただ、そうはいっても個人の手に負えないものもあるし、また日本はまだ近代国家として生まれたばかりなので自分たちの手でこの国を育てていくのだという意識が弱い。だから警察はそういう意識が民衆の間で高まっていくまでのお手伝いをするのだ、といったことを述べています。

ですから彼は警察官の職務として、単に犯罪を捜査したり人々に法律を遵守させるだけでなく、民衆の生活の中に入っていき、積極的にそこに関与していきいろいろな相談に乗ってあげるべきであるとしました。これは例えば江戸時代の自身番、そして現代の田舎の駐在所などがそうしている状態に近いでしょう。

ただこういう警察が積極的に民衆の中に入っていくという性質は、後に軍国主義的な政治家が台頭すると、反体制派の取り締まりに利用されるという悲劇を生みます。そして太平洋戦争後はその反動から警察は「民事不介入」といって家庭内の争いや個人間の争いには立ち入らないようになり、これが最近では、家庭内暴力から逃れたい人やストーカー被害に悩む人たちを見殺しにするような困った事態にまで進展してしまいました。目の前に今にも殺人を犯しそうな人がいるのに「犯罪が起きるまで警察は動けない」などと言われては、庶民は何を頼ったらよいのか分かりません。

そこで現在、日本の警察はこれまでの方針を変更しつつあり、それは結果的には、この川路大警視の思想に戻ろうとしているかのようです。

なお川路利良や彼を指揮した大久保利通が整備したのは東京の警察だけですが政府は他県の警察もこれを見習うよう指導していきます。そこで各県の警察も同様の改革を進め、番人は廃止して、それまで邏卒と呼んでいた捜査官の名称を巡査と改め、それを統率する(与力相当の)管理者を警部と呼び、また警察の組織も警察本署、のちに警察本部と改称していきました。

そして川路が書いた「警察手眼」は全国の警察官に読まれるようになります。この文書は現代の警察官にとっても充分参考にすべきものとして、高く評価されています。

川路正之進利良は天保5年(1834)5月11日薩摩藩の皆与志村(現鹿児島市内)に生まれました。父は薩摩藩の与力で、利良も幼少より漢学を修め真影流を極めました。明治維新・戊辰戦争の時は兵具隊一番隊長を務め幕府軍と戦いますが幕府軍の銃弾が陰嚢に命中する重傷を負います。しかし弾丸は睾丸には当たっておらず「川路は勇壮で玉が縮み上がってなくて伸びていたから種無しにならずに済んだ」と言われ『川路のぶらぶら睾丸』と言われて褒め称えられました。

戦争終了後は兵具奉行に任じられ、明治5年(1872)5月には東京府の邏卒総長になります。そして同年9月から1年間、ヨーロッパの警察制度を視察するため、渡欧しました。そして明治6年9月帰国するのですが、この時期政府には激変が起きていました。

当時の名目上のトップは太政大臣・三条実美ですが、参議の西郷隆盛が強い権力を持っていました。西郷は韓国への出兵を主張していました。しかし岩倉使節団に随行して川路と同時期に渡欧していた大久保利通が5月に使節団本体より一足早く帰国すると、ヨーロッパの状況を見てきて世界感覚を感じ取ってきた大久保はこの征韓論に猛反対します。激しい議論の末、西郷ら征韓論者は参議を辞しました。結果的に大久保が明治政府の実権を掌握します。

この事態にひじょうに困惑したのは川路でした。そもそも川路を取り立ててくれたのは西郷でした。心は揺れたとは思いますが、今自分は明治政府に仕えている身であることを再認識し、政府に残ります。そして今や明治政府内の薩摩派閥の中核となった大久保に自分がヨーロッパで見てきたことを報告して警察制度の改革に着手していくのです。

そしてやがて西郷が薩摩の保守的な勢力に祭り上げられて不穏な動きを始めると大久保と川路は話しあい、薩摩の者のことは自分たち薩摩の者で決着を付けようとして、詳しい動向をさぐるために薩摩藩内に密偵を派遣します。ところがこの密偵が西郷に近い者たちに見つかってしまい、これがかえって西南戦争を勃発させる結果となりました。

こうなってしまっては、もう迷うことは許されませんでした。川路は巡査隊を組織して陸軍少将に任じられ自ら先頭に立ち鹿児島に向かいました。特に激戦地の田原坂では、この巡査隊の中の抜刀隊の武勇が高く評価され、その活躍はルルー作曲「抜刀隊(一番初めの元歌)」として歌われました。しかし西郷に同情的な鹿児島では大久保と川路は裏切者という意識が強く、かなり近年まで冷たい扱いを受けてきたようですが、今では生誕の地に石碑が建立されたりしています。

川路は西南戦争が終わり西郷も死んで大久保も暗殺された後も活動をやめようとはしませんでした。警察制度をもっと良くするための視察をすべく再度渡欧しますが、実は西南戦争の最中に健康を害していました。ヨーロッパに着くのとほぼ同時くらいに倒れてしまいます。そして日本に搬送されますが、帰国した時には既に意識のない状態になっていました。そして帰国のわずか5日後の、明治12年(1879)10月13日死去。享年45歳。その墓は東京の青山霊園にあります。

その事績はここ10年くらいの間に急に高く再評価されるようになってきました。


(2004-01-13)

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