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三浦環の蝶々(1915)

1915年のこの日、ロンドンのオペラハウスに三浦環が日本人として初めてプリマドンナとして出演、プッチーニの「蝶々夫人」を歌いました。

三浦環(1884.2.22-1946.5.26)は東京芝で公証人柴田猛甫と妻の永田登波との間に生まれました。日本初の公立小学校であった虎ノ門の鞆絵小学校、そして同じく虎ノ門の東京女学館を出たあと東京音楽学校(現・東京芸大)を卒業、そこの教師を務めたあと帝国劇場に移りオペラ歌手としてデビュー。結婚後1914年留学のためドイツにわたりますが、翌年ロンドンでのこの出演で一躍スターになりました。

彼女はこれをきっかけにヨーロッパとアメリカを中心に2000回以上も「蝶々夫人」を演じています。1920年には作曲者のプッチーニ(1858-1924)と対面、プッチーニから「わが夢」と称賛されました。

また、アメリカではメトロポリタン歌劇場でエンリコ・カルーソーと共演したこともあります。この劇場にプリマとして立った日本人は彼女が最初です。

1936年には帰国し、その年歌舞伎座で2001回目の「蝶々夫人」を演じています。蝶々夫人の舞台となった長崎のグラバー園には現在、三浦環の像とプッチーニの像が並んで立っているとのことです。

「蝶々夫人(マダム・バタフライ)」はJ.L.ロングの原作(1895)で、明治中期の長崎を舞台に、士族の娘お蝶とアメリカ海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いています。1904年にミラノで初演されました。

二人は恋をし結婚して子供までもうけます。しかしピンカートンが帰国することになって、彼はその内戻るからといって単身でアメリカに行ってしまいました。お蝶は彼を待ちますがなかなか戻って来ません。やがて3年の月日が流れますが、やっとピンカートンはまた長崎にやってきました。しかし彼の側には向こうで結婚したケイトが付き添っていたのです。

お蝶はショックを受けこのまま侮辱を受けるよりは武士の娘として高貴な死を選ぼうといって自刃して果てます。(お蝶が芸者になっているのはアルベール・カレの改変版)

第二幕の「ある晴れた日に」のアリアは有名。キーの高い曲が多くソプラノ泣かせの難曲と言われています。

この物語は実話を元にしているとされ、そのグラバー園のトーマス・グラバー(1838-1911)と夫人の鶴さんがモデルではないかという説もあります。が実際にはこの手の話は随分多かったのではないでしょうか。なお、実際のグラバーは帰国せず高島鉱業の所長を務めたり、キリンビールの創業に関わったりした後東京麻布で亡くなっています。

(原作をベラスコと書いてある文献もありました。実際どうなんでしょ^^;)

「蝶々夫人」というと横溝正史の「蝶々夫人殺人事件」が推理ファンにとっては外せない作品です。この物語は戦後の読者におなじみの金田一耕介ではなく戦前の耽美な作品で活躍した由利先生が探偵をつとめる作品です。

トリックは現代ではもう使い古されたものですが、コントラバスのケースから突如現れる死体、出没する男装の麗人、楽譜の暗号、二重三重のどんでん返し、最後に探偵が関係者全員を集めて「さて」という古典的な演出、本文の最後の一行で明らかになる意外な犯人。そして由利先生のシリーズはこれで終わりだよ、というかのような、微笑ましい後日談、とサービスたっぷりの名作に仕上がっています。

その最大のトリックはクリスティーが某有名作品で使用したものですが、クリスティーの元の作品よりこちらの方がずっといい仕上がりだと私は思います。


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